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〈生涯現役〉 「老いても心はいつも祖国へ」−崔秀任さん

「一度信じたら最後まで」

 91歳になってもかくしゃくとした日課を送る。

 元気の秘訣は? と聞くと、三食をしっかり食べて、一日30分ほどの散歩を欠かさないこと。晩酌に好きなビールをコップ一杯飲んで…。

 しかし、最近、指先を骨折、入院して手術した。

 「原因は35年前に骨折したところが痛みだしたと言われた。そのときは、骨折したこともわからず、がむしゃらに働くばかりだったから」

 崔さんの忍耐強さを物語るエピソードであろう。

幼少期から働きづめ

91歳になっても元気いっぱいの崔さん

 生まれたのは、日帝の過酷な植民地支配に抵抗して立ち上がった3.1独立運動の2年前、1917年。慶尚北道軍威郡の小作農の家に4男1女の末子として産声をあげた。アボジ(父)は長い間病床にあり、10歳のときに死去。働き手を失い、暮らしはどん底状態に。崔さんは幼少の頃から炊事、洗濯、針仕事…なんでもやらされた。

 ある日、野良仕事から帰ってきた長兄がかまどの淵に上がって、かまの中をのぞく崔さんを見て、涙を流したことがあったという。あまりにも幼い妹が必死に働いている姿に涙したやさしい兄だった。その兄はその後、4歳の一人息子を残して仕事を求めて渡日。しかし、悲劇は続く。23年、関東大震災時の朝鮮人大虐殺事件に遭い、無残にも命を奪われた。さらに、この甥も後の朝鮮戦争で赤狩りにあって、殺された。

 「日本に祖国を奪われ、解放されたと喜んだら、今度は、米帝の侵略。わが家から2人も犠牲者が出た。そんな恨を忘れず、子どもたちにどんなことがあっても祖国を守るよう伝えていかなければ」と崔さんはきっぱり語った。

 16歳の頃、隣村の青年、金鐘圭さんと結婚。まだ辮髪の新郎の顔を見たのは、新婚3日目の朝だったという。顔も写真も見たことがない「ぶっつけ本番」結婚だった。苦難を共にした夫は95年に亡くなった。「どんな人でしたか」と聞くと、崔さんは顔をくしゃくしゃにした。

 日本の侵略戦争の拡大は、朝鮮農村をますます疲弊に追い込んだ。塗炭の苦しみにあえぐ村人たちも離散していった。42年、長女を連れて、日本へ。落ち着いた先は横浜市鶴見の生麦だった。そこで同胞労働者たちの食事を世話する飯場を転々として、1カ月に4回引っ越したことも。

 そのうち夫は群馬県高崎の奥地にあった陸軍の造幣廠で仕事を請け負い、人夫20人あまりを連れて移った。時々様子を見にいくと、狼の鳴き声が聞こえてくるようなうらびれた場所だった。

まっすぐな朝鮮人に

南朝鮮人民の闘いを支持する自動車パレードで(右端、1960年5月)

 解放を迎えたものの、26歳で渡日した崔さんにとって、言葉のハンディは大きかった。字が読めず、買い出しに行くにも苦労した。「ウリマルは小さいとき、かまどから出る灰をノートにして、枝をペンにして何度も何度も書いては消して覚えたものだった。そのおかげで朝鮮新報はよく読んだ。漢字が入ってない頃は、隅から隅まで読むのが楽しみだったよ」。

 子どもも3男4女に恵まれ、全員朝鮮学校へ。食糧難の時代に、野菜のくずを拾って、テンジャンにして食べさせ、タッペギを作って売りに歩いたり、懸命に働いた。

 夫の金さんもアパート経営などで暮らしをたてるようになったが、それも横浜朝鮮初級学校の土地購入などに投じた。「国を奪われた在日朝鮮人は、まず学校を建て、民族精神が脈々と流れる次の世代を育てなければ」というのが、亡き夫の口癖だったという。

 崔さんは55年から65年まで、女性同盟横浜支部委員長を務めた。

 「当時の思い出は同胞女性の加盟者数を倍増したことかな。一軒一軒しらみつぶしに同胞の家を訪ね、デモや集会に誘ったり…」

 60年、東京都新宿区飯田町にあった総連中央本部が火災にあったことがあった。「取る物も取りあえず、カマスに米を詰めて、中央本部に駆けつけると女性同盟中央・朴静賢副委員長もいて、『ご苦労さま』と手を握ってくれた」と懐かしそうに振り返る。

 しかし、その後、紆余曲折を経て、住居も神奈川から埼玉に移した。しかし、夫婦はどんなことがあっても、正月は総連本部に足を運び、同胞の中で過ごした。「一回信じたら最後までその道を歩くのが人間。祖国を裏切ったら、人間ではない」というのが、夫婦の信念だった。

 孫・ひ孫は全員で35人。そのうち長女の孫が72年に帰国。月日が流れ、ひ孫が平壌医科大学を首席で卒業したことが、曾祖母の自慢の一つだ。「帰国させて本当によかった。まっすぐな朝鮮人として育ってほしい」との願いが花開いたと掛け値なしに喜ぶ。

 老いても心はいつも祖国へ。00年6.15の恩恵を受け、同年11月、約60年ぶりに故郷訪問を、02年5月には、平壌に「アリラン」祭を、10月には釜山にアジア競技大会を観にいった。祖国訪問は数知れないが、「80歳のときに登った白頭山の美しさが忘れられない」と話す。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2008.4.11]