〈人物で見る朝鮮科学史−53〉 測雨器と気象学A |
測雨器を発案、文宗
時を自在に操るがごとく歴史の局面で活躍した科学者たちの人生を追い、そこに思いもしない脚本を見出し、まずは自らが驚いてみる。ここに科学史の面白さがあるが、これはけっして科学史に限ったことではないようである。朝鮮の国宝ともいえる測雨器であるが、現存するのは1基のみで、そこにも皮肉な歴史のエピソードが存在する。それについては後で詳しく述べることにしたい。 さて、測雨器についてもっとも気になるのは、考案したのは誰かということだろう。すぐに浮かぶのは中世最高の技術者と称された蒋英実で、事実、蒋氏族譜には彼が測雨器を製作したと記録されている。族譜の記述とはいえ、当時の蒋英実の活動から見ればその可能性は高い。しかし、それを製作することと、そのアイデアは別である。では、誰がそのアイデアを出したのか。それは世宗の長男で後に第5代王となる文宗である。 「世宗実録」1441年4月29日条には世宗の言葉として次のように記されている。「近年、世子が日照りを心配し、雨が降るたびに染み込んだ深さを土を掘って調べたが、正確に雨が降った深さを知ることができないので、銅を溶かして器を造り宮中に置いて雨水が溜まった数字を調べている」。まさに、ここには測雨器の原型が示されており、その数カ月後に制度化されたというわけである。実は、その引用文の前には非常に興味深いことが書かれている。それは、ソウルに黄色い雨が降り凶事が起こるのではという噂が流れたが、文宗が試作した器の雨水は黄色ではなかった。そこで、文宗は黄色の雨というのは空から降ったものではなく、松の花粉が風に飛ばされて混じったものと世宗に報告したのである。
文宗が合理的思考の持ち主であることを示す逸話であるが、さらに彼の業績として知られるものに火車の発明がある。1474年に刊行された「国朝五礼儀序例」の「兵器図説」にはこの火車に関する説明文と図が掲載されているが、移動用の荷車とその上に各種発射台を設置することができる、まさに今日のロケット弾の原型ともいえるものである。高麗末期、火薬と各種火薬武器を開発したのは崔茂宣で、その技術は息子の崔海山に受け継がれさらなる発展を遂げたが、文宗の火車によって一応の完成をみたのである。 文宗は若い頃に世宗とともに天文観測台を視察してまわるなど、学問への関心が高く世宗時代の文化を受け継ぐ人物として期待された。それは、文宗という生前の事績の評価に基づく諡号に如実に現れている。ところが、その文宗は王位に就いてわずか2年でこの世を去る。そして、12歳の幼い端宗が王となるのだが、これが後に大きな悲劇を生むことになる。世に言う「死六臣」である。(任正爀、朝鮮大学校理工学部教授) [朝鮮新報 2008.4.25] |