〈人物で見る朝鮮科学史−54〉 測雨器と気象学B |
長期変動を知る貴重な資料
世界最初の雨量計・測雨器は、朝鮮が世界に誇る科学史的業績であるが、前近代的な側面もある。というのは農耕社会において降雨量は農業と直接関連する重要事項であり、天に代わって政事を行う王はそれに高い関心を持っていることを示す必要があった。そこで日照りになると雨乞いの儀式が行われたが、雨が降るとその量を測雨器によって測った。まさに、測雨器は王の徳を誇示する象徴としての役割を担ったのである。 世宗時代に確立された測雨器による降雨量観測は、壬辰倭乱(豊臣秀吉の朝鮮侵略)によって中断を余儀なくされたが、復活したのは18世紀の英祖時代である。1724年に第21代王となった英祖の在位52年は歴代のなかでもっとも長く、世宗に次ぐ英明な王といわれている。その彼が測雨器を復活させたというのも、ある意味で象徴的である。 「増補文献備考」は英祖の言葉として次のように伝えている。「実録のなかで測雨器に関する条項を聞くたびに、知らぬ間にも正しく座りなおしてしまう。今は雨を祈願する時期ではなく、水標の状況を報告させ水位を知ることができるが、この測雨器には至極の理致があり、また、それほど大変でもない。この制度に従って書雲観で作り八道・両都に設置せよ」そして、1770年5月1日に新しい測雨器が登場する。英祖の指示通りであれば、この時、少なくとも10基の測雨器が製作されたことになる。
この頃、どのように観測を行っていたのかについては、英祖・正祖・純祖3代に仕えた中人出身の天文学者・成周悳(ソン・ジュドク)が1818年に著した「書雲観志」に詳しい。それによれば、当番が一日5回交代で、23種の天文現象を非常現象と正常現象の二つに分け観測を行っていた。そして、何か起こった場合は「星変測候単子」というメモに記して、逐一報告するようになっていた。その観測規定は非常に厳格で、現在とほとんど変わらない。降雨量に関しても、まず観測原簿である「風雲記」に記録され、半年毎にそれを整理した「天変抄出謄録」が、「王朝実録」編纂を担当する官庁である春秋館に提出された。このような活動は、英祖以降朝鮮が日本の植民地となるまで続いた。 現在、それらとともに「日省録」・「承政院日記」・「王朝実録」などによって、1770〜1907年までの約140年間のソウルの降雨量が明らかになっている。グラフはそれをもとに筆者がエクセルで作製したもので、欠けている年もあるが最高3500ミリ、平均1580ミリである。近代以前のこのような長期にわたる記録は世界的にも例がなく、近年、人々の関心を集めている気候の長期変動を知るうえでの貴重な資料となっている。先に測雨器には前近代的な側面があると指摘したが、その記録が活用されることによって、測雨器は現代気象学に貴重な資料を提供する観測器という新たな意味を担ったのである。(任正爀・朝鮮大学校理工学部教授) [朝鮮新報 2008.5.9] |