〈生涯現役〉 祖国平和統一協会副会長として奮闘−申粉南さん |
「祖国こそ命」 後代に伝えて 祖国平和統一協会副会長、女性同盟千葉支部顧問を務める申さんには忘れがたい記憶がある。数十年前、まだ、初級部に通っていた息子に聞かれたことがあった。 「オンマ、『アリラン峠』ってどこにあるの」と。 申さんはとっさに、日帝の侵略、解放、その後分断された民族の受難史について語りながら、みなが力を合わせて越える峰がアリラン峠であること、そして、苦労して登った山頂には、必ず統一の旗がはためくと子どもに教えたという。 日雇いや飯場で仕事
1930年生まれ。「祖国の存在は格別だ」と真情を吐露する。 植民地時代に慶尚南道軍威郡の村で、小さいながら田畑を持ち、農業を営んできた両親。しかし、その暮らしも日本の土地調査事業によって、田畑を奪われ、破壊された。両親は生きる糧を求めて渡日、大阪府東大阪市荒本を皮切りに日本各地を転々とした。 その頃の思い出はいいことはひとつもない。「朝鮮人はバカだ」「にんにく臭い」と級友たちからいじめられた。勉強ができた申さんに向かって、女の子が「ゆき子ちゃん(申さんの日本名)は朝鮮人なんかじゃないわよね」という言葉を投げつけたことも。 日本の文字が読めない両親には、日雇いや飯場の働き口しか見つからず、貧しい暮らしが続いた。「山の奥の粗末な飯場では、寝るとき天井を見上げると夜空の星がまたたいていた」という。 申さんも5〜6歳の頃から、ブレスレットにセルロイドを貼り付けたり、ファスナーの始末をする内職に精を出した。 「日本の子どもたちが下校の途中、店に立ち寄って買い食いしているのを尻目に、ひたすらオモニのいいつけを守って、毎日毎日、内職をしたものだった」と申さんは遠い日の記憶を手繰り寄せる。 第2次世界大戦の拡大によって、米軍による日本各地への空襲の被害も広がっていった。そんな中、申さんの両親も親せきを頼って千葉県船橋市へ。敗戦の2年前のこと。幼い日から両親を助けて働いてきた申さんは、結局、これ以降学校に通えなかった。 留置場で1週間も
解放を迎え、同胞たちの喜びは頂点に達した。朝聯結成や朝鮮学校の創立準備などにまい進する同胞たちの運動の渦のなかで、申さんも鍛えられていった。 1947年、17歳で女性同盟千葉県船橋支部総務部長に抜擢された。 「朝鮮学校閉鎖令が出たときは、千葉や船橋で同胞たちと共に連日抗議活動を行った。ある日、市役所に抗議に行ったとき、当時の船橋市長に『あんたはどこに行ってもいるね』と声をかけられたことがあった」 「警察に連行され、1週間留置場に入れられたこともあった。名前や住所を聞かれたが、一切答えず黙秘を通したことも」 また、東京都新宿区の朝鮮奨学会のビルに掲揚された共和国国旗を引きずりおろそうとした米軍MPらに抗議したとき、「おまえたちは帰れ」と朝鮮語で怒鳴られたこともあった。 祖国を守るために挺身した若き日のできごとが走馬灯のように蘇ってくる。朝鮮戦争に反対して、戦争反対のビラを映画館や駅など、人の出入りする場所で撒いたりもした。 「祖国を奪われ、苦難の歳月を重ねた両親は、一度も故郷の土を踏むことなく他界した。私たちは1世に近い2世。親の苦労する背中を見ながら祖国への憧れを育んだ」
そんな申さんが祖国の地を踏みしめたのは82年の春。「元山から高速道路に乗って目に飛び込んできた祖国の麗しい山河。名もない草木や雑草…。とたんに涙がとどめなく流れて、とまらなくなった。この祖国の貴重な山河を取り戻すため、金日成将軍の指導の下、どれだけ多くの愛国者たちが血を流し闘ったかと思うと…」 申さんはそれ以来祖国に何度も足を運んだ。そのたびに思いを強くするのは、「幸せは遠くにありて思うもの」という淡々としたものではなく、「祖国という幸せの泉を二度と失ってはならない」というひたむきな愛である。 90年7月、「祖国の平和と統一のための8.15汎民族大会−在日朝鮮人大行進」に参加、大阪から東京まで歩いたことがあった。当時、すでに老境にあった同胞たちが「統一をこの目で見るまでは死ねない」と語りながら、力強く行進する姿に胸を熱くした。 21世紀に入ってもイラクやアフガニスタンを空爆し、他国を蹂躙する超大国・米国の傍若無人なふるまい。「金正日総書記の導く先軍政治の結実によって、祖国の地は鉄壁に守られてきた。米国であれ、誰であれ、祖国に手を出すことなどできない。数千年の輝かしい歴史を誇る『祖国こそ命』という言葉を胸に刻み続け、そして新しい世代に伝えていかねば」と結んだ。(朴日粉記者) [朝鮮新報 2008.5.16] |