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〈平和をつむぐ人々−歴史家の願い−@〉 朝鮮観をゆがめたのは誰か

 歴史学者の上田正昭さんは、20数年ほど前から「民際」という言葉を使ってきた。「国際という言葉は国と国との関係を示したもの。国があっての人ではない。国より先に民族があり、民衆がいる」と力説する。

 日本民族を単一民族とみなす素朴な受けとめ方は、いまもなお日本の政治家、官僚のみならず、多くの人々の中に根強く残っているが、そうした曲解は、1910年代から日本の学界の中でも提起され続けてきた、と上田さんは指摘しながら、「それらは複合民族説にかんする研究史をかえりみない俗説であり、実証的な歴史学や考古学、人類学などの研究成果を無視した、歪められた見方や考え方である」 と断じる。

06年10月、京都で行われた「高句麗壁画古墳展」で記念講演する上田正昭・京大名誉教授

 01年12月、平成天皇の「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本記に記されていることに韓国とのゆかりを感じます」との発言は、日本国内の大きな反響を呼んだ。しかし、上田さんが65年に著書でその史実に触れた時は「近く天誅を加える」だの、「国賊上田は京大を去れ」だのという物騒な手紙や嫌がらせ電話に悩まされた。

 日朝が対立した時代にも史実を見据え、歴史の前に謙虚な姿勢を保ち続けた上田さん。81歳の今も朝鮮の平和統一と日朝の国交正常化を願って、意気軒昂に講演をこなす。

 1968年の秋、400年前の朝鮮通信使の第8次、第9次の真文役として活躍した対馬藩の藩儒家で、すぐれた思想家、教育者でもあった雨森芳洲(1668〜1755)と、滋賀県高月町の雨森で、芳洲の名著「交隣提醒」などと出会い心を揺さぶられた上田さん。すぐれた先覚者であり、日朝友好の先駆的な実践者であった芳洲と上田さんの来し方を重ねる人々も少なくない。

 すでにしてあった善隣のきずなを断ち切ったのは誰か、現実に存在した友好の日朝関係をゆがめ、朝鮮史像や朝鮮観を歪曲したものは何か。生涯をかけたこの重い問いに、「善隣友好の志を同じくする仲間たちと共に、東アジア史の研究に向かって、今後も努力していきたい」と。

 斎藤忠・大正大学名誉教授。1908年生まれのまもなく百歳。「現役考古学者のなかで最高齢」である。昨年末には「古都開城と高麗文化」(第一書房)を刊行して、話題を呼んだ。

 90歳を過ぎて、開城を六回も訪れ、その周辺の王陵・寺院・寺院跡・窯跡などを調査。高麗寺院二十寺とその諸相、高麗大蔵経、高麗青磁…これらを基盤として発達した高麗文化を幅広く紹介している。いまも、国内外での遺跡調査を精力的にこなす。

今は亡き金錫亨・朝鮮社会科学院院長(写真堰jと60年ぶりに再開した斎藤忠・大正大名誉教授

 著書の数はぼう大。「学者の理想は、生涯において著書を積み重ねて自らの背丈を超えるほどの高さにすることです」と軽妙に語る。すでに著書の数は背丈をはるかに超えて、この数年だけでも「日本考古学文献総覧」「斎藤忠著作選集」全6巻、「日本考古学人物事典」(学生社、650人収録)などの大著を出版した。また、「著作選集続T」(07年刊)に続き、今月、「続U」が刊行される。

 はるかな歴史に刻まれた先達の人類史への偉大な貢献。その足跡への畏敬の念が、斎藤さんを新たな研究へと駆り立ててやまない。

 ちょうど10年前の98年5月初旬、大正大学創立70周年の記念事業として、開城の霊通寺を訪ね、現地で日朝共同発掘の鍬入れを行った。 

 「開城の発掘現場で、若い人たちが休み時間になるとシャベル、鍬などの道具をきちんと揃えているのを見た。こんな美しい姿は、日本ではもう見ることはできない。礼儀の大切さが脈々と生き続けていることに非常な感銘を受けた」。いま、「もう一度美しい朝鮮に行きたい」と願う。

 朝鮮の歴史学者故金錫亨・社会科学院院長との約60年ぶりの平壌での再会も、斎藤さんの胸を熱くさせた。かつて日本の植民地支配の下で、研究の道を阻まれた朝鮮の学者たち。しかし、数十年の時を越え、朝鮮の考古学は血のにじむ努力の末に見事な復興を遂げていた。朝・日の2人の学者は万感の思いをこめて両手でしっかり手を握りあったのだ。

 「考古学研究75年」の集大成としての朝鮮考古学研究へのアプローチは、「日本の古代文化の源流を求めるうえで、朝鮮の考古学上の研究がいかに重要で、問題性に富んでいるか」を示すものだと語る。(朴日粉記者)

 ※今号より週1回、朝鮮をめぐる平和をつむぐ人々を紹介していきます。

[朝鮮新報 2008.5.30]