〈人物で見る朝鮮科学史−57〉 測雨器と気象学 番外編 |
「科学帝国主義」の象徴
1917年に朝鮮総督府観測所は、所長であった和田雄治の研究論文を一つにまとめた「朝鮮古代観測記録調査報告」を刊行した。ここには測雨器とそれによる降雨量記録をはじめ朝鮮における地震や黄砂の記録、そして瞻星台に関する調査などの論文が掲載されている。いずれも、その分野の最初の研究といえるが、日本人である和田雄治が、なぜ、そしてどのような研究を行ったのか? いずれ深く追究したいと考えていた。 契機となったのは2003年神戸大で開催された「東アジア環境史・気候変動国際シンポジウム」である。主催者から「朝鮮科学史の観点から見た朝鮮半島の気候の歴史」という表題で講演を依頼され、ソウルにおける降雨量記録の発掘を中心とした和田の業績について報告を行ったのだが、参加者の関心も高く、あらためて和田に関する研究が必要であると強く感じた。 その後、東京・大手町にある日本気象庁の図書室に通い、彼の講演記録などを調べて全体像を把握することができた。ところが、一つの問題に直面した。それは、朝鮮文化を高く評価する和田の立場をどのように理解すべきか、ということであった。
古代から中世にかけて朝鮮の科学技術が日本に伝わり大きな影響を与えたことは周知の事実で、朝鮮の伝統文化が優れていたことは植民地期にも認められており、和田の研究もそれを実証するものであった。では、彼の研究は単に朝鮮文化を讃えるものなのか? 和田は植民地統治機構の高級官吏である。その研究は日本の植民地政策と矛盾しないのか? おそらく、これまで和田に関する研究がほとんど行われなかったのは、その評価がネックになっていたからだろう。 幸い、近年、植民地科学史の研究が深まり、基礎科学といえども植民地支配において何らかの役割を果たすという「科学帝国主義」という概念が確立されているが、和田の場合もそれに該当する。朝鮮の伝統文化を認めながらも、いち早く近代化を達成した日本統治者たちには今は自分たちが先立っているという優位感があった。そして、朝鮮の伝統文化を改めて発見し十分に評価できるのは自分たちであるとして、朝鮮王朝に取って代わった自分たちの「文明性」を内外に誇示しようとしたのである。もう一つは、朝鮮はすでに日本の領土であり、朝鮮文化は日本文化の一部であるとする立場である。ゆえに、それを高く評価することは、すなわち日本の文化を評価することに他ならないという考えである。和田自身このことを自覚していたかは別にして、「朝鮮古代観測記録調査報告」はその象徴としての意味を持つのである。 和田の評価に対する自分なりの答えを得て、和田の研究内容とその意味するところをまとめ論文「和田雄治の朝鮮気象学史研究」を完成することができた。論文は韓国科学史学会誌に掲載されたが(日本語要約「統一評論」06年5月号)、長年の宿題を果たしたようで、ちょっと肩の荷がおりた気分でもあった。(任正爀・朝鮮大学校理工学部教授) [朝鮮新報 2008.5.30] |