〈朝鮮史から民族を考える 19〉 「植民地近代(性)」論の問題点 |
共通の歴史認識模索へ 「植民地近代(性)」論
1990年代後半に入って、「収奪論」と「植民地近代化」論の両者に共通する「近代」肯定論的な性格(すなわち「収奪論」は内在的な「近代化」「植民地近代化」論は外来的な「近代化」をそれぞれ強調)を止揚すべきだとする研究動向が現れるようになった。それが今日、「植民地近代(性)」論と呼ばれている一連の研究である。代表的な研究者としては、並木真人、松本武祝、尹海東、林志弦らがいるが、一つのグループを形成したわけでなく、研究者によっては、そのスタンスに違いがあるようである。 「植民地近代(性)」論は、植民地状況の中で形成される近代というものの性格=近代性を問い直そうとする議論である。換言すれば、植民地主義と近代性を表裏一体のものとして捉え、近代性そのもののもつ権力性や抑圧的、差別的な諸側面に注目する視座であるといえる。「植民地近代化」論がマクロな統計数値や制度的側面、企業の動向など、主に経済史研究の領域に属するのに対して、「植民地近代(性)」論はその状況を生きた人々のミクロで日常的な事象に焦点をあてる社会史研究を領域としている。朝鮮における「植民地的近代(性)」研究の論点はおよそ以下のとおりである。 都市文化へのヘゲモニーとしての成立 「グレーゾーン」と「近代主体」の形成
「近代性」のヘゲモニーが優越するなかで、朝鮮人はつねに動揺しながら、植民地権力に協力しては抵抗するという両面的な様相を呈してきた。そのような「抵抗」と「協力」とが交差する地点に、「グレーゾーン(灰色地帯)」−病院・学校・社会事業、末端行政機関といった規律権力施設=公共施設−が位置していた。そこでは、女性解放運動、被差別身分解放運動など、多様なアイデンティティが存在しており、「コラボレーター(協力者)」が「近代主体」として成長していた。植民地権力はこのような「公共性」の領域内で、「近代主体」として自己を形成していった朝鮮人エリート(中間層)を「対日協力者」として位置づけた。一方、「協力者」はそれらの場を利用しながら、公共施設の設立・拡充の実現を植民地権力に対して要請する運動を主導していった。いわば、中間層の「対日協力」と植民地権力とのあいだには「同床異夢」的なズレが生じていた。 脱近代、脱民族 「収奪論」であれ「植民地近代化」論であれ、その表面的な対立にもかかわらず、両者は、近代、民族主義を肯定する論理としては共通している。そこには、民族主義を過大に評価し、それを唯一の尺度として植民地期および解放後史を見る視座が見受けられるが、まさにこの点に問題がある。植民地期の朝鮮人の実像は、もはや従来の「抵抗か、屈従(親日)か」という二分法的な民族主義歴史観では捉えることはできないのである。 解放後史も南北が互いに植民地期の近代性、民族主義の「残滓」を「再生産」する連続の過程であった。かつての南朝鮮民主化闘争の精神的源泉であったナショナリズムも、今日ではさまざまな問題を生んでいる。その主たる原因は、「民族」や「民衆」という概念を根本的に問うことをせず、それらを自己完結的に絶対化してきたことにある。また、現在の世界化(グローバル化)も、国民国家体制の解体というよりも、ナショナリズムの危機を煽り、「国史」の強化を通じて国民を「再国民化」する方向に向かっている。 国民国家の解体に繋がる新しい世界認識は、脱近代・脱民族の方向で獲得される。その当面の実践の場として「東アジア」を設定することができる。しかし、現在、東アジア諸国の歴史問題や領土問題をめぐって、「国史」に根ざした民族主義の「敵対的共犯関係」が強化されているというのが現実である。このような現実を克服するためには、民族主義的な「国史」を解体し、東アジア共通の歴史認識を模索することが何よりも大切であろう。 以上、要するに、「植民地近代」論は、民族主義的に政治化された「支配−抵抗」の二分法的図式を相対化し、支配権力と被支配者の複雑に絡まった関係性を考察することによって、二項対立的なカテゴリーに収まりきれない多様なアイデンティティと「近代主体」の姿を明らかにし、かつ、そのことによって「近代」「民族」の多義性、重層性を浮き彫りにしようとするものである。しかし、そこには看過できない問題点も少なくない。それについては次回で述べたい。(康成銀、朝鮮大学校教授) [朝鮮新報 2008.6.6] |