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〈人物で見る朝鮮科学史−59〉 ハングルと死六臣A

解説本「訓民正音」

集賢殿の学士たち(想像図)

 世宗時代の科学技術官庁ともいえる集賢殿には30人ほどの学士がいたが、そのなかの多くは漢文を崇高なものと考え新しい文字の創製には反対の立場をとっていた。そこで世宗の命を受け、若い学者たちを率いてこの事業に取り組んだのが鄭麟趾である。

 1396年に生まれた鄭麟趾は、1411年に文科の初級試験に首席で合格、中央政府の官職に就き、1425年に集賢殿の責任者の一人である「直提学」となった。1427年には文科の高級試験にまたも首席合格、その優れた才能は広く知られた。暦書作成のために中国の「授時暦」を習得した鄭招が自身の共同研究者として指名したのも鄭麟趾で、彼らが1431年に「七政算・内編」を完成させたことは以前に述べたとおりである。また、鄭麟趾は金宗端とともに「高麗史」の編さんにも携わるが、武人として名をはせた金宗端と学者肌の鄭麟趾との関係はあまり良好ではなく、これが後に彼らの運命を大きく変えることになる。

 1443年、鄭麟趾らの奮闘によってハングルは完成したが、その使用に反対する者も多く、すぐには公表されず3年後に解説本が刊行されるが、その題名も「訓民正音」という。この「訓民正音」はハングルに関する世宗の布告文「御製」と「解例」、そして鄭麟趾の「序文」から構成されているが、その後、一般に普及した解説本には「解例」が抜けていた。「解例」には創製過程と原理が詳細に書かれており、言語に関するこのような文献は世界的にも類がない。幸い1940年に慶尚北道安東の旧家から発見され、2006年にユネスコの「世界の記録」、通称「記録遺産」に登録された。「訓民正音解例本」と呼ばれ、現在、ソウルの澗松美術館に保管されている。

訓民正音解例

 ちなみに、いつ誰が作ったのかが明確な文字としてハングルのほか、ポーランドの言語学者ザメンホフが作ったエスペラントがある。異なる言葉が行き交う地域で育ったザメンホフは、人々のいさかいは言葉が異なるためだと考え、新しい言語の情熱に傾けた。ゆえにエスペラントには平和への願いがこめられており、その意味するところも「希望するもの」である。

 さて、鄭麟趾はその後政府の要職を歴任、次の文宗時代にも重用された。ところが、文宗は王位に就いてわずか2年でこの世を去り端宗が王となるが、文宗の弟で後に第7代王となる世祖が幼い甥が王として君臨することを快く思わず、自身が王になるように画策する。そこで鄭麟趾を取り込み、端宗自らが王位を譲るように説得させる。この時、端宗を補佐していたのは金宗端であるが、彼は自宅を訪ねてきた世祖の配下によって撲殺され、端宗は王位を世祖に譲らざるをえなくなる。金宗端の排除を積極的に支持した鄭麟趾は、それによって「功臣」に遇され宰相にまでのぼりつめた。(任正爀・朝鮮大学校理工学部教授)

[朝鮮新報 2008.6.13]