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〈続・遥かなる高麗への旅 朝鮮史上初の統一国家@〉 国家の大事、文官が戦闘指揮

外交と軍事で外敵の侵略を撃退

「江東六州」を取り戻した徐煕(ソフィ)

大興山城北門(開城市内で)

開城・羅城

 朝鮮半島は三面を海に囲まれ大陸の北方から侵入してくる外敵に悩まされ続けた。王建は建国初期から高句麗の故地回復を図るとともに高句麗の旧都・平壌(第2の国都として西京と呼んだ)を政治的に重要視し、軍事的拠点として整備、北方勢力を警戒、牽制した。

 916年、遼河上流流域に「遼」という国を建てた契丹(蒙古族の一派)は勢力を東に拡張し、926年には渤海を滅亡させた。

 993年10月、契丹は蕭遜寧の指揮する80万の大軍をもって高麗に侵入してきた。高麗はすでに朴良柔・徐煕・崔亮の三軍の防御軍を編成し清川江の辺に陣を取り、敵の大軍と勇敢に戦い侵略軍を牽制した。清川江を渡り高麗軍の防御が薄いとされる安戎鎮を攻撃した契丹軍は高麗軍の猛攻撃に遭って総退却した。

 両軍が対峙し緊張する中、契丹軍の陣地で講和会議が行われ高麗側からは徐煕が交渉に臨んだ。

 蕭遜寧は「高麗は新羅の継承国なのになぜ契丹の領土を脅かすのか」と挑んだ。徐煕は敵陣の中にもかかわらず「高麗は高句麗の後裔という意味でその名も高麗と言う。契丹の居座る領土こそ高句麗の故地である。その土地はわれわれに返さなければならない土地なのだ」と論破した。また、蕭遜寧は「高麗は宋とは交流するのになぜ遼には入朝しないのか」と糾したのに対し「それは女真がわれわれの道を塞いでいるからだ。契丹が女真を排除すれば遼と交流しない理由はない」と不当な要求を一掃した。高麗と宋との関係を絶ち、契丹との関係を持たせたい敵の本心を見通し巧みに交渉した徐煕は、契丹軍を引き上げさせたばかりでなく「江東六州」興化鎮・亀州・龍州・鉄州・通州・郭州の六城を明け渡させた。徐煕は希代の外交家であった。

契丹の侵略を撃退した姜邯賛(カンガムチャン)

姜邯賛将軍の肖像画(朝鮮画報社編「朝鮮の名人」より)

 しばらくの平和が続いたが、宋と和約を結んだ契丹はその矛先を高麗に向け第2次・第3次侵略に至った。宋との対決を有利に運ぶため高麗と宋との関係を絶ち切ろうとして、1010年には高麗の王位継承を巡る争いを口実に契丹王聖宗は40万の大軍を率いて高麗に侵入した。興化鎮・西京の防衛戦は敵に大打撃を与えたが大軍の契丹軍は南進を続けそのまま開京に向かった。姜邯賛将軍は一時的に首都開京を敵に明け渡し、抗戦を続けることを主張した。開京を占領した侵略軍は厳しい寒さと飢餓、背後攻撃に悩まされて開京入城後、10日目に総退却した。契丹軍の退却に合わせ亀州周辺に待機していた高麗軍の主力は敵軍の先陣を押さえ大殲滅戦を展開、40万の侵略軍を鴨緑江以北に撃退した。

 二度の惨敗にも懲りず契丹王は高麗王の入朝と「江東六州」の返還を要求し、数千、数万の兵力で7回も高麗の領土に侵入してきた。

 清川江の北側だけでも手に入れようとする契丹は1018年12月、蕭排押の率いる10万の大軍で三度目の大規模侵入に及んだ。姜邯賛将軍の率いる20万の高麗軍は契丹軍の先鋒が興化鎮に押し寄せると、用意した川の堰を切って落とし敵軍を不意の水攻めにした。大混乱に陥った敵兵に襲い掛かり多数の契丹兵を倒した。開京攻略に失敗した契丹軍は退却を余儀なくされたが、亀州周辺で大包囲網を張っていた姜邯賛将軍はいっせいに攻撃を加え大打撃を与えた。高麗軍は逃げる契丹軍を追撃し、10万の兵力のうち逃げ帰ったのは数千に過ぎなかったという。これが史上名高い「亀州大捷」である。

 姜邯賛が文官出身の将軍であったように、高麗では国家の大事には文官が戦闘の指揮を執った。(文=洪南基、写真=文光善)

[朝鮮新報 2008.6.18]