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〈寄稿〉 「和田雄治のもうひとつの顔」

文化財略奪の過ちを免罪できぬ

 朝鮮新報5月26日号掲載の「朝鮮の測雨器と和田雄治」は、朝鮮に唯一残されていた測雨器が日本へ持ち去られていたというショッキングな事実と、その搬出者の和田に関連した興味深い記事だった。

和田が東京国立博物館に寄贈した記録「列品録」のコピーの一部

 記事によれば、優れた朝鮮自然科学の象徴というべき測雨器を取得した人物は、朝鮮総督府観測所初代所長の和田雄治であり、和田は在職中に朝鮮中世の気候観測記録を発掘し、整理したことで知られているとのことだ。

 私にとって初めて知る事実であり、民族の科学文化に関心を持ち、研究視野を広げることを促す啓発的な記事でもあった。

 だが、記事のタイトルを見た瞬間、ある記憶が蘇ってきたのである。「和田雄治」の名に覚えがあった。私の記憶に残っている和田は、日帝期に観測所の職員でありながら、朝鮮の文化財略奪に手を汚した和田であり、その和田がまたもや測雨器の持ち帰り者(略奪者?)として再登場したのである。

併合直後の強奪

 文化財略奪者としての和田を知ったのは1973年に南朝鮮で発行された「韓国文化財秘話」(日本語訳「失われた朝鮮文化」、新泉社刊)の記述からである。この書は、植民地期の日本人による文化財略奪の実態を赤裸々に暴いた告発書である。この中で、「東京国立博物館にあった白玉仏」というタイトルがつけられ、和田の犯行が明らかにされているのである。その内容はおよそ次の通りである。

和田が東京国立博物館に寄贈した大理石菩薩像

 江原道江陵市内の寒松寺跡に、高麗時代の白大理石製菩薩座像2体が残されていた。破損がひどい1体はそのまま放置されたが、美しい姿を保ったもう1体は、近くの七星庵という寺の住職が引き取り、大事に奉っていた。ところが、噂を聞きつけた当時江陵気象観測所職員だった和田が寺を訪れ、仏像の譲渡を住職に強要し、わずかな金銭を無理矢理押しつけて仏像を観測所の庭に運んでいった。1911年3月のことである。

 和田はこの仏像を同年10月に東京帝室博物館(現東京国立博物館)に、和田献上品として寄贈したとのことである。

 和田の犯行がくわしく暴露されたのは、和田がある考古学者に入手のいきさつを得々と語り、それを考古学者が「某氏よりこの仏像を発見したる由来を伝聞として」と『考古学雑誌』に発表したからである。この雑誌の記述では、和田の名が伏せられ、終始一貫「某氏」とされている。おそらくは、考古学者も和田の行動が尋常な振る舞いでなかったことを感じて、名前を明らかにできなかったのであろう。

 この和田と今回の記事の和田が同一人物であることは間違いない。それにしても仏教美術品の菩薩座像だけではなく、自分の専門とする気象学関係の遺物にまで手を伸ばした和田の行為には唖然とするばかりである。

 私の胸中に、和田が奪った物はこれだけなのかという疑念が生じた。

 その想いは、図書館で閲覧した「事典・近代日本の先駆者」における和田の紹介記述でますます強くなった。

 「朝鮮における気象事業の責任者として調査研究に励み、朝鮮の古代観測記録と儀器を収集した」(測点は筆者)

詳しい寄贈記録

世宗時代の測雨器

 はたして和田は、どんな記録と儀器を「収集」し、収集した物はどのように処置したのであろうか。仏像や測雨器の取得行為から「収集癖」まで感じさせる和田のことだから、相当の「収集品」があったように思えるのである。

 私の疑惑は、まんざら邪推でなかったことを、東京国立博物館附属の資料館を訪ねたことで一部証明できた。新たな取得物が判明したのである。私が資料館への訪問を思い立った動機は、和田が博物館への寄贈者であり、当時のくわしい寄贈記録が残されているなどと見当をつけたからである。ひょっとしたら和田の気象関係の「収集品」から、新たな寄贈品が判明するのではないかという期待があった。

 和田の寄贈記録は、「列品録」という古い収蔵品文書に残されていた。この文書は、国立博物館開設以来、現在に至る百余年間の購入品、寄贈・寄託品の膨大な文書である。

 和田に関する記録は、明治37年から大正元年までのマイクロフィルムにあった。

 大正元年(1912年)12月27日付博物館館長宛ての毛筆書き「寄贈願い書」にはこう記されている。

 「朝鮮総督府観測所長正五位勲4等和田雄治より大理石菩薩1体、外2品当館寄贈方願い出あり…」(測点は筆者)

 私の目にとまったのは、「外2品」という記述である。その外2品は、添付されている寄贈品目録から「医受a墓誌一個、八大覚経石刻四枚」とのことだ。気象学関連のものではなかったが、いずれにしても新たな略奪品があったことが歴然と証明されたのである。この新たに発見された文化財の原所在地がどこであり、どのような歴史的・考古学的価値があるものか究明する必要がある。

 和田が朝鮮の気候に関する古文献の探索に努め、それを整理しまとめた論文を「気象集誌」などに発表したことをもって、大きな功績があるとされている。しかし私は、その功績を素直に認知できない。なぜならば、文化財略奪の前科もさることながら、和田が発掘し、調査した古文献が、紛失原因がはっきりしないまま所在不明になっていることを知ったからだ。

 南朝鮮で発行の「韓国科学史」に次のような記述がある。

 「1910年、仁川測候所に在職中の和田雄治が、景福宮倉庫から文献を取り出し……和田が心血を注いで整理、研究、発表した李朝観測監の天変謄録は、仁川測候所図書館に保管されていたことまでは確認されたが、その後、それらがどのようになったのか、わからないというから(朝鮮戦争の戦火で燃えたという説もあるが)、じつに哀惜すべきことと言わざるをえない」

 淡々とした記述であるが、私には言外に紛失について和田の関与を暗示しているような気がしてならない。私の一方的な深読みかもしれないが、次々と新たな事実を突きつけられると、どうしても和田に嫌疑の目が向いてしまうのである。

 過去に日本人学者らは、日帝の植民地政策の立案と推進に参与し、その過程で朝鮮古文献、美術品、歴史・考古学的遺物を横領し私蔵した。紙数の関係でくわしく語れないが、古書に関して言えば次のような経緯がある。

朝鮮古書の計画的略奪

 朝鮮古書の計画的略奪は、伊藤博文が初代統監に就任してから本格化している。統監府がまず狙ったのは、景福宮内の李王家書庫に代々受け継がれてきた、貴重な古典籍類である。日帝は、埃にまみれ、湿気にさらされている蔵書を「保存し、整理分類」するとの口実で、古書類を引きずり出し、統監府設置3年後の1908年には、各分野の学者を本国から招集し、本の品定めを行わせた。そればかりではなく、統監府の行政部門に「臨時取調局」を新たに設け、朝鮮全土の書籍目録作りに取りかかった。朝鮮総督寺内正毅もしかりである。

 寺内も総督府の官制に「取調局」なるものを設置し、「朝鮮における各般の制度及び一切の旧慣を調査すること」を大義名分に掲げて、李王家書庫はおろか、地方の旧家の書院、寺の書蔵庫まで「調査」を広げ、植民地政策に有益なものは奪い、害になると見なしたものは破棄したのである。

 こうした調査に参与するか、朝鮮と関わり合いがあって相当の蔵書家になった人物は、法学博士の浅見倫太郎、京城帝国大学教授の今西龍、歴史学者の金沢庄三郎、統監府通訳官だった前間恭作らである。

 和田がこうした「調査事業」に参加していたかどうかは不明だが、当時総督府の高級官僚としての権限と便宜を与えられ、景福宮内の書庫に自由に出入りしていたことは十分に想像できる。和田が自分の専門とする貴重な「天変謄録」や「風雲記」に接して、どれだけ心を躍らせ、整理に熱中したかも想像にかたくない。また、それを私蔵したいという所有欲を募らせたとしてもおかしくない。かつての日本人学者の行状を見れば、そのように連想してしまうのである。

 和田は、1915年に病のため辞職し、本国に帰国したとのことである。その時に測雨器を携帯したのであろうか。また「収集した」とされている他の儀器と古代観測記録も一緒に持ち帰ったのであろうか? 必ず解明しなければならない課題である。

 私は、和田に対して学問的功績は功績として知ったとしても、その功績をもって和田が強行した文化財略奪の過ちを免罪することはできない。朝鮮に唯一残された測雨器の返還はもちろん、和田の収集品に、当然朝鮮民族が文化遺産として保管すべきものがあれば、それを究明して返還を実現すべきである。(南永昌、朝鮮近代史研究者)

[朝鮮新報 2008.6.20]