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〈人物で見る朝鮮科学史−60〉 ハングルと死六臣B

集賢殿の「八学士」、成三問

成三問の筆跡

 「世宗実録」にはハングル創製を完成させた人物として、鄭麟趾とともに崔恒、成三問、申叔舟、朴彭年、李善老、姜希顔、李★ら8人の名を記している。鄭麟趾を除いてみな20代、30代の若い学者たちであった。集賢殿には優れた人材が集まったが、なかでも「八学士」と称され人々の尊敬を集めた学者たちがいた。

 その双璧といわれたのが成三問と申叔舟で、一説によれば彼らは遼東半島に流配されていた明国の有名な言語学者・黄瓉のもとを13回も通い音韻についての研究を深めたという。また、中国にも知られた朝鮮の文人たちの詩集「遼海編」にも、申叔舟が序文を、成三問があとがきを書いている。しかし、その才能を競い合った二人は、世宗亡き後まったく対照的な人生を歩むことになる。

 1435年わずか18歳で科挙の下級試験に合格した成三問は、21歳で文科に合格し集賢殿の学士となった。成三問をはじめとする集賢殿の若い学者たちに対する世宗の期待は大きく、孫でいずれ王となる端宗を補佐するようにという言葉を下していた。ところが、世祖によって端宗は王位を追われる身となり、そのことに心を痛めていた彼らはいずれ端宗を王位に復帰させる機会をうかがっていた。そして、1456年明国の使者の歓迎宴に彼らに同調する兪應孚らが警護にあたることになり、その機会を利用して世祖と世子を処断するクーデターを企てた。ところが、当日に場所が変わり、また世子の参加が取りやめとなった。兪應孚はあくまでも決行を促したが、成三問らは後日を期すことにした。ところが、その計画発覚を恐れた金礩という人物が世祖に密告、加担したとみなされた者は尋問を受ける。

忠清南道文化財資料第81号に指定されている成三問の墓

 主謀格である成三問は世祖から尋問されるが、あくまでも自分と父・成勝の企てであると主張、また官吏として王である自分の禄をはんでいるではないかという世祖に対し、王と思ったことは一度もなく禄棒にも手をつけていないと答えた。世祖が確かめさせると、実際に彼の家に残されたままであった。成三問を屈服させることはできないと判断した世祖は彼を車裂きの刑に処した。忠清南道論山に建てられた墓には、彼の片足が埋められているという。「われ倒れなば、蓬莱の高嶺に生い茂るそびえ立つ大樹とならん。白雪に天下が覆われるとも、われ一人青々と立つ」。最後まで志を貫き通した成三問の辞世の詩であるが、それはそのまま鄭麟趾や申叔舟に対する辛らつな批判でもあった。

 計画に加担した朴彭年、李★、河緯地、兪應孚らも極刑に処され柳誠源は自決、その忠義を讃え人々は彼らを「死六臣」と呼んだ。反対派人物が集賢殿から多くでたことを危惧した世祖は集賢殿を廃止、ここに世宗時代の科学文科発展の一翼を担った集賢殿は、その輝かしい歴史に幕を閉じたのである。(任正爀・朝鮮大学校理工学部教授)

★=王へんに豈

[朝鮮新報 2008.6.20]