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〈遺骨は叫ぶN〉 秋田県・小坂鉱山 逃亡者捕らえられると袋叩きに

栄養失調で倒れ、亡くなる人続出

 青森との県境近くにある小坂鉱山(秋田県鹿角郡小坂町)は、1861年に地元の人が発見した。南部藩が開発したが、のちに官有となったものの実績が上がらず、藤田組に払い下げられた。その後に黒鉱を生産したほか、露天掘りも開始して採掘鉱石が飛躍的に増加、「銅においては日本一、銀においては椿鉱山と首位」(「秋田県鉱山誌」)を争った。太平洋戦争初期の産銅奨励時代には、軍需工場として重要視されたが、機械や生産資材が不足し、徴用工・勤奉隊・学徒隊などを使った。それでも労働力が不足し、強制連行した多くの朝鮮人や中国人を使った。

小坂鉱山内の道路。左側に朝鮮人を収容した飯場があった

 小坂鉱山に朝鮮人がいつ頃から来たかは資料もなくはっきりしない。小坂鉱山で朝鮮人の飯場をやった金竜水は、毛馬内(現鹿角市)で、古鉄商をしている伯父を頼って来たあと小坂鉱山で働いたが、その時は鉱山に朝鮮人はいなかったという。1年くらいしてから飯場をやったが、本国から来た従兄弟や近くの朝鮮人を使った。それから1年くらいして、官斡旋・徴用の朝鮮人が来たのは1943年。その2年前に金竜水は小坂鉱山に来ているが、この証言によると朝鮮人が来たのは遅かった。

 1946年に厚生省が作成した「朝鮮人労務者に関する調査」(秋田県)には、1943年=178人、1944年=205人、1945年=99人の計482人が来ている。

 また、小坂鉱山の下請けをしていた多田組には、1943年=24人、1944年=14人、1945年=341人の計380人が来ている。小坂鉱山と多田組とで、862人の朝鮮人連行者が働かされた。

 小坂鉱山に来た朝鮮人は、「鉱山事務所の上方に忠誠寮という寮がありました。真ん中を通路が通っている寮が、たしか5棟ほど建ち並んでいました。いちばん下の寮が食堂でしたが、出口は一カ所だけで、いつも監視が見張っていました。わたしが来た頃で、寮だけでも300人を超える朝鮮人がいました。全部の寮が、高いフェンスに囲まれていました」(申鉉杰)と語っている。

多数の朝鮮人が埋められている寺の沢の竹薮

 小坂鉱山では、三交代の8時間労働だった。冬になると、少し厚いのを着たうえに作業着だけなので、寒さは骨身にこたえた。地下足袋は配られないので藁やぼろきれを拾い、破れたところに巻いた。「若さで保ったのです。いまだったら死んでしまいます」(同)というが、さらに食事が悪かった。

 食堂で食べる朝と晩は、茶碗に半分の飯に、おかずは塩をふりかけたイナゴが一回に7〜8匹と、人参とか大根の葉が少し浮かんでいる塩汁が一杯だった。朝飯が終わると、昼のワッパ弁当を渡されたが、大半の人がその場で食べた。昼は水を飲んで我慢したが、空腹で頭がぼーっとしたという。作業は、坑内の仕事が多く、仕事が厳しいうえに、食糧がこんな状態なので、朝鮮人たちはもやしのように痩せていった。

 仕事がきついうえに衣服も悪く、食糧が少なくて空腹にあえぐ毎日だったので、多くの人が逃亡した。小坂鉱山の労務係をした川田徳芳は、「朝鮮に4回行き、慶尚北道から800人連れてきたが、逃げられ、終戦時には450人ぐらいになっていた」という。厚生省の調査では、小坂鉱山には482人が連行されたが、逃亡=147人、送還=27人、一時帰国=8人、死亡=1人、終戦時に帰国=307人となっている。約3分の1近い朝鮮人が逃亡している。金竜水は「食べる草を取りに山へ出かけたまま、逃亡した人もかなりいた」と証言している。自身も逃亡した申鉉杰は、「逃亡者が相次ぐものですから、監督は捕らえてくると別室で袋叩きにして部屋に閉じ込めたが、生死がわからなくなった人もいた」と言っているが、それ以上の詳しいことはわからない。

 小坂鉱山と多田組には、862人の朝鮮人が連行されたのに、死亡がはっきりしているのは、厚生省名簿の一人である。徴用で連行された金元達禄の出身は慶尚北道。小坂鉱山では、金属製鉄工をしており、1945年7月7日に死亡しているが、原因も遺骨の処理も書いていない。だが、「仲間が落盤で死んだとか、たくさんの仲間が栄養失調で倒れたとか、死んでいるという噂も聞きました。自分のことを思うと、間違いないだろうと思いました」(申鉉杰)という証言もある。

 また金竜水は、「朝鮮人は小坂鉱山で31人が死んだと覚えているが、これも名簿があるわけでないからはっきりしない。私が鉱山をやめてから、坑内で亡くなった人もいたようだが、詳しいことはわからない。寺の沢の火葬場で焼いていた」「敗戦後に一緒に来た人が、帰るときに遺骨を持っていった。ただ、知人のいない人の遺骨は、何人かわからないが、いまでも残っている。私が組織の仕事をやっていた時は、墓参りをしたが、運動から身を引いた後はやっていない」と言っていた。

 筆者は、金竜水が元気な時に、二度墓地に案内してもらった。寺の沢の奥に行き、「あそこに墓がある」と指差してくれたが、斜面には根曲がり竹が密生し、近づくことができなかった。笹の中に卒塔婆らしい古びた数本の杭が見えたが、その下にいまも眠っているのだ。(作家、野添憲治)

[朝鮮新報 2008.6.23]