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〈続・遥かなる高麗への旅 朝鮮史上初の統一国家A〉 民衆の決起、新政府を樹立

蒙古の侵略阻止 抵抗の砦は「三別抄」

八万大蔵経が納められている高麗博物館

 高麗時代、約1世紀にわたり武人政権(1170・毅宗24年〜1270・元宗11年)という特異な政権が続いた。文人の下に位置づけられた武人たちはその不満を爆発させ1170年に鄭仲夫指揮の下、武人政変を起こし文人中心の門閥貴族社会を崩壊させた。武臣が主な政治勢力として登場して既存の権力機構の改革を標榜したが、土地収奪に目がくらみ民衆に対する抑圧と搾取を強行した武人たちは地方と民衆の抵抗にあい、政治経済は混乱して自己矛盾に陥ってしまった。皮肉なことに武人政権時期に大陸の中原では、蒙古族社会を統一(1206年)したチンギス・ハーンが南に勢力を拡大して金(女真族)と契丹(蒙古族の一派)を服属させ高麗に迫ってきた。講和を主張する王族・文臣たちに対し侵略に敢然と立ち向かったのは、搾取される民衆であり、武臣たちであった。

 1225年(高宗12年)、高麗に使臣として来た著古與一行が鴨緑江の国境地帯で何者かに襲われ殺される事件をきっかけに、1231年、撒禮塔が率いる軍隊が高麗に進入し、開京を包囲した。各地で勇敢な抗戦が繰り広げられたが高麗は講和を求め、蒙古は1232年達魯花赤(目付け)を設置して軍隊を撤収させた。崔氏政権の崔瑀(怡)は蒙古との長期戦を覚悟し海戦に不慣れな蒙古の弱点を突き1232年、首都を開京(開城)から漢江河口の江都(江華島)に遷都した。高麗の断固とした態度に対し、蒙古は1232年から1253年の間、5度にかけて侵攻を繰り返した。崔瑀の死後その子崔も蒙古に対し断固として戦ったが1258年政変により崔氏政権は崩れ、政治的実権を金仁俊らが握った。1268年、蒙古との講和に反対する林衍が金仁俊を倒して権力を握ったが蒙古訪問から帰った太子が王(元宗)位に就くと1270年林維茂(林衍の子)を殺し、武人政権は終焉を迎えた。蒙古と講和を結んだ元宗は同年5月、開京へ遷都した。

 蒙古が講和を結び高麗の主権を認めたのは当時の蒙古にとって例のないことだった。江都は39年間高麗の首都だった。

勇猛な指導者・「仲孫

木版の八万大蔵経と印刷された経典

 江都を守り、蒙古との闘いにおいて主力をなしたのは「三別抄」だった。国王が蒙古に降伏した後も三別抄は徹底抗戦し江華島から珍島、済州島に陣地を移しながら最期まで闘い、蒙古の日本侵略と南宋侵略にも打撃を加えた。元々、別抄軍は武人政権の崔瑀が政権維持と地方に対する統制を強化するために組織した非正規の兵力であった。

 別抄軍は戦闘において命を顧みない勇士たちで組織された特選部隊である。別抄と言うのは本来特別に選んで用いるという意味だが、「抄軍」を「抄猛」と呼んだこともある。三別抄について「高麗史」第81巻兵志(兵1兵制、元宗11年)に次のような記述がある。「初め崔瑀は国中に盗賊が多いのを心配し勇士を集め、毎晩巡回して横暴を防いだことに因み夜別抄と呼んだ。盗賊が諸国で起きるので別抄を派遣して逮捕するようにした。その軍隊がとても多いので左右に分け、さらに国人のうち蒙古から逃げ帰った者たちで一部を創り神義と呼んだ。これが三別抄になった」。左別抄、右別抄、神義抄の三軍を三別抄と呼んだのである。

 1270年、武人政権の崩壊とともに三別抄の「抗蒙抗争」が始まった。元宗は王位に就いてから蒙古勢力と結託して武人政権を崩壊させ同時に三別抄を解体しようとした。三別抄の指揮官は「仲孫(〜1271年)である。王室の裏切り行為に対し三別抄軍と民衆を決起させ貴族を処断、武器庫を占拠し、兵器と軍糧を確保して江都を掌握した。王族の承化候・温を王位につけて新政府を樹立、徹底抗戦した。三別抄は闘いに有利な珍島に向かい一時は全羅道一帯を席巻し政府軍と蒙古軍を寄せ付けなかった。「仲孫将軍は1271年5月、珍島における蒙古軍との戦いで戦死した。済州島に陣地を移した三別抄は金通精の指揮の下、猛烈な戦いを繰り広げ満1年の間、制海権を握り政府軍と蒙古軍に痛打を加えた。1273年4月、全島を火の海に変えた蒙古軍総攻撃の下で三別抄軍は最後の一人まで勇猛に戦い抜いた。

 満3年に及ぶ三別抄の抗争は武人政権がなくなった危機意識の発露であったばかりでなく、蒙古という大帝国を後ろ盾にして行われた激しい収奪に対する高麗社会の不満の噴出でもあった。その結果三別抄の抗争に鼓舞された抵抗が全国に拡がり高麗政府と蒙古の朝廷に大きな衝撃を与えた。(文=洪南基、写真=文光善記者)

[朝鮮新報 2008.6.25]