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〈朝鮮の風物−その原風景 −11−〉 酒幕

民衆の喜怒哀楽映す酒文化

 李朝風俗画の双璧と謳われる金弘道と申潤福の酒幕の絵は、同じ酒場に材をとりながらもそれぞれ異なった「世界」を描く。申潤福の「酒肆挙盃」が、暇を持て余し気味の両班と下級官吏を相手にしたデカダンな高級酒家なのに対し、金弘道の「酒幕」は一目で下層民相手のそれとわかる。二人の風俗画の個性の違いがここにもよく表れている。

 いつの世にも人々は一日の労働の疲れを癒し、喜びはもちろん、悩みや怒り、悲しみを語らう友として酒を愛でる。その場が酒幕である。酒幕とは、いまでいう居酒屋のようなもので、基本的には金弘道の描く庶民的感覚が相応な場所である。人々はここで人生を論じ、愛と友情を語り、主義主張に口角沫を飛ばす。そして鬱積したストレスを一気に放散させて、明日への英気を養う。時代が違ってもすこしも変わることのない人々の営みである。

 昨今、酒幕は歴史ドラマにたびたび登場するが、実は朝鮮王朝時代は建国から滅亡に至るほぼ500年間、基本的に禁酒令が布かれていたことは意外に知られていない。とくに英祖治世(1724〜1776)50年の禁酒令は大変厳しかったらしく、墓参の献酒すら法度にしたという。禁酒令の理由は、酒の主材料が一般民衆の生死に関わる穀物だったからだ。凶作や日照りなどが相次ぎ、穀物の確保は死活に関わる問題だった。

 しかし総体的にはその時代も含め禁酒令はかけ声ばかりで、実際は抜け道だらけのザル規制だったようだ。しかも禁酒令で処罰されるのはいつも決って下層民ばかりで、上層階層はあの手この手で取り締りの網をくぐり抜け、のうのうと飲酒三昧を楽しんだというからあきれる。法規制が弱者だけに集中するのは今も昔と変わらぬ悪しき現実というべきか。こうした状況であってみれば、禁じられたはずの酒幕が歴史ドラマに登場するのも当然のことかもしれない。

 ところで酒幕が本格的に出現するのは朝鮮王朝後期になってからとされるが、とくに正祖の代(1777〜1800)に禁酒令が大幅に緩和されて以後、酒幕は爆発的に増えたといわれる。もちろん、それ以前にも酒そのものを売る商いは存在したが、店に客をよびこんで酒を出すという形態は、正祖代以降になってから登場したという。これらの酒幕は宿屋を兼ねるのが一般的で、宿といっても寝具もないオンドル部屋に数人が雑魚寝するものである。したがって食事代さえ払えば宿泊はタダだった。

 ここで出される酒とはもちろん濁酒、すなわちマッコルリである。濁酒の上層の澄んだ酒−チョンジュは、当然ながら権勢家や金持ちが呑む。

 このように酒幕は、下層民衆の拠りどころとして連綿と営まれてきた。それは今日も、現代社会の中にさまざまな形で生き続けている。酒幕は酒を媒介として民衆の喜怒哀楽を直截的に映し出す特別な場所、人間ドラマの舞台だった。(絵と文=洪永佑)

[朝鮮新報 2008.6.27]