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〈人物で見る朝鮮科学史−61〉 ハングルと死六臣C

一流の学者で権力者、申叔舟

申叔舟の肖像画

 死六臣は、日本でいえば赤穂浪士の討ち入りのような話として小説やドラマにもなっているが、とくにリム・ジョンサン「삭풍 (北風)」(文学芸術総合出版社)は作者が歴史学者という異色作で興味深くかつおもしろい小説である。ちなみに、作者の第一作は日本の古代史研究に衝撃を与えたことで知られる金錫亨博士をモデルとした「해돋이(日の出)」である。

 さて、死六臣の主人公・成三問に対して、ヒール役として歴史にその名を残したのは皮肉にも「集賢殿八学士」として成三問とその才能を競った申叔舟であった。

 申叔舟は中国語が堪能で、後に王となる世祖が明国に使者として出向いた時に同行している。そして、これ以降、彼らの関係は急速に深まっていく。それは、成三問らが世祖へのクーデターを計画した時、まずは申叔舟を処断すべきという意見が出たほどであった。

 死六臣にまつわる逸話は多いが、よく知られたものに申叔舟夫人・尹氏の話がある。成三問らが端宗への忠義から世祖を処断しようとして失敗し、極刑に処せられたことを伝え聞いた尹氏は、夫もそこに加担していると考えた。ところが、夫は何事もなかったように帰宅、彼の不忠に失望した尹氏は自ら命を絶つ。事実かどうかはさておき、人々が申叔舟に対してどのような感情を抱いていたかをうかがい知ることができる話である。

「海東諸国紀」の日本地図

 その後、申叔舟は自身に向けられた批判に反比例するように冷酷非情な権力者としての道を歩む。まず、世祖暗殺計画に加わった者たちの兄弟、子や孫を殺害、端宗や彼の世話をやいたとして世祖の弟の錦城大君も死に追いやった。その功によって申叔舟は右議政をへて左議政となるが、世祖が死んで睿宗が王位に就くと彼の補佐役となり、政敵である北方の反乱を抑えた南怡や康純を逆賊にしたてて死刑にする。さらに、次の成宗の時にも領議政であった世祖の甥である亀城君を流配し、自分の地位を万全のものとする。

 しかし、一方で彼は間違いなく一流の学者であった。申叔舟は1443年に日本への通信使の書状官となって随行しているが、京都で足利幕府と交渉する間、彼の文才に感激した日本人は先を争うように詩作を求めたという。その際、申叔舟は日本の国情をつぶさに観察、また多くの資料を集めた。それらをもとに成宗の命を受け1471年に撰集したのが「海東諸国紀」である。ここには日本と琉球に関する歴史・地理などとともに通交の諸規定について書かれており、当時の日本や琉球を知る貴重な資料となっている。それは本書が岩波文庫の一冊になっていることからも十分にうかがい知ることができる。

 申叔舟は1475年、59歳でこの世を去るが、「人は結局このように生きて死んでいくのだ」という言葉を残したという。それは現実主義者としての自分の人生を肯定したものなのか、あるいは忠義にそむいた人生を悔やんでのものなのか、その真意は今となっては誰にもわからない。(任正爀・朝鮮大学校理工学部教授)

[朝鮮新報 2008.6.27]