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〈朝鮮史から民族を考える 22〉 植民地期の朝鮮人史学者たち

学問の現実認識・参与の大切さ

震檀学会と朝鮮学運動

鄭寅普

 震檀学会は歴史学・民俗学・言語学・国文学など広い研究分野を対象にした朝鮮人の学術団体である。李丙Zを中心とする「実証史学」系の人々が主流を占め、「民族史学」系や一部の「社会経済史学」系の人々もこれに参加した。朝鮮学運動は34年に丁茶山逝去99年祭に際して「與猶堂全集」の刊行事業を進めたことから始まるが、日帝の民族抹殺政策に対抗して朝鮮文化の研究、保全をめざしたこの運動には、白南雲、鄭寅普を中心とした「社会経済史学」系と「民族史学」系の学者と一部の「実証史学」系の学者も参加した。これらのことから震檀学会と朝鮮学運動は幅広い人々を網羅した組織運動だったといえる。

 しかし核心的な問題は、震檀学会には白南雲と鄭寅普が参加しておらず、朝鮮学運動には李丙Zが参加していないというところにある。震檀学会と朝鮮学運動の両方にまたがっている人々もいたが、各学派の中心人物たちは互いに対立的な関係にあったとみることができるのである。その理由は何だったのだろうか。

孫晋泰論

孫晋泰「朝鮮民族史概論」の自序

 「新民族主義史学」を提唱した孫晋泰は三つの学派を評価するうえでキーポイントになると思う。孫は震檀学会との関わりについて次のように述べている。

 「知識人や学生の間で、社会主義や民族主義の論争が一世を風靡して、われわれのように純粋学究的な方面に向かう者は人の数に入ることはなかった。…しかし、私たちは学問を現実政治に超越するものであるという信念を捨てなかった。その後10年が過ぎた昭和9年(34年)春…4、5友が桂洞の李兄(李丙Z)宅に集まり相談したことが、震檀学会創立の始まりであった」

 孫は、当初、「実証史学」の立場にいたと見て間違いないと思われる。しかし、そんな彼の歴史観はその後変化していく。

 「私が新民族主義朝鮮史の著述を企図したのはいわゆる太平洋戦争が勃発したころであった。同学数友とともによく密会し、これに対する理論を討議し体系を構想した」

 「同学数友」とは孫寶基の証言によれば、李仁栄、趙潤済、林建相、丁海英らである。そのうちの一人である趙潤済は後に次のように回想している。

 「過去の私の研究と学問について大きな懐疑を抱き」「この問題について何回も学友孫晋泰氏…李仁栄氏と論議してみた」「私たちはここで、過去の私たちの学問は目的のない文字の侮弄であり、史観のない学問の道楽であると規定し、それを排斥した。それはまた、日本学風への盲従とみて、わが学界の立場からは一顧の価値がないものと規定し、その学的価値を無視した」「私たちは…現実問題を解決することができ、民族も生きていくことができる道を明示する科学的な学問を要求した」。

 孫や趙のこのような学問的転換は、金哲凾ェ回顧談で、「日本人に負けないように、これもあれもやったが、結局、自分のものはなかった」と語ったように、これは多分に「実証史学」系の多くの学者たちに共通する実感であったと思われる。

再建震檀学会の内紛

 震檀学会は、42年に朝鮮語学会が強制解散されたのを見て、同年に自ら解散したが、解放直後の8月に、「実証史学」系の学者を中心にして再建される。しかし、当初、委員長には李丙Zが就くことになっていたが、趙潤済の批判により、李の「親日」的な過去が学会内で問題となり、3年後の48年になって、ようやく委員長には宋錫夏が就任した。李の過去とは、25年に朝鮮総督府傘下の朝鮮史編修会に嘱託となったことを指すが、それは「私に直接、間接に大きな激励と刺激と影響を与えた人は、日本の津田左右吉博士と池内宏博士で」あったという彼の発言から彼を見込んで池内宏が推薦したためであった。その李は解放後も南朝鮮で文教部長官、学術院院長を歴任し、官学者の「権威」として名をはせている。

 一方、李を批判した趙潤済は、植民地期に国文学研究を開拓した学者として知られ、解放後にはソウル大学校で長年要職に就き、4.19革命に際しては、在ソウル全大学教授大会を開催して時局宣言文を発表し、引き続き市街地に出てデモ行進を敢行するうえで中心的な役割を果たしている。

学問の現実認識と参与

 以上の検討を通じて次のように言うことができよう。それは、組織や運動の評価とそれにかかわった学者個人の評価はいったん分けて考えるべきであるということである。震檀学会は「実証史学」系の学者を中心にしてほかの二つの学派の学者が合流した学術団体であったと一応言うことができる。しかし、連合組織としてのその質は過渡的なものであった。日本人が朝鮮史研究を独占している条件下で、独自の学術団体をもつことは朝鮮人学者の切実な願いであっただろう。震檀学会はこのような必然化した歴史的所産として結成された。

 だが、植民地史学に対する立場においては当初から内部に差異が顕在していた。それゆえにほかの二つの学派の中心人物が参加しなかったばかりか、その後に「実証史学」系のなかから孫晋泰、趙潤済の他にも批判者が多く出てきた。例えば、李相栢(李相和は兄)は「実証史学が押し立てることができる唯一の理論家」(金容燮)であると評価されているが、その理由は、44年に呂運亨が指導する建国同盟に加盟し、解放後も行動をともにした彼の現実認識とも関連していたと考えられる。このような震檀学会内の事情が、解放とともに内紛として表面化したのである。

 それに比べ、朝鮮学運動は、日帝の民族抹殺政策に対抗する文化運動であったため、反植民地史学をめざした広範な学者が参加した。そして、彼らは解放後、南北に分断された状況下でも、統一運動の一環としての史学をめざすことができたのである。

 このことは、植民地期の朝鮮人史学者たちの史学史的検討を通じて、学問の現実認識・参与ということがいかに大切なのか、ということを私たちに示してくれているのではなかろうか。(康成銀、朝鮮大学校教授)

[朝鮮新報 2008.7.7]