top_rogo.gif (16396 bytes)

平和をつむぐ人々−黒田清さんの遺志を継ぐ

小さな声をすくいあげて

パソコンを使いこなせない世代の反戦の声に耳を傾けたいと語る矢野宏さん

 ジャーナリスト・黒田清さん(享年69)が病に倒れてまもなく8年。葬儀が営まれた2000年7月31日、大阪は猛暑だったが、惜別する約1500人の葬列が途切れることはなかった。

 入院先の病床のテレビで6.15共同宣言と首脳同士の抱擁と固い握手を観た黒田さんは、自らが発行する「窓友新聞」にこの歴史的ニュースを喜び、心から祝福する記事を書いた。これが絶筆となった…。

 弱者への限りない共感と反骨精神、威張る者、ごう慢な権力、差別のシステム、戦争勢力を憎み、容赦ない怒りのペンを向けた。市井の人々にとって「強い味方」であった。

 黒田さんは、76年から80年代半ばまで、読売新聞大阪本社社会部長として最強の社会部記者集団「黒田軍団」を縦横に動かし、次々に特ダネを放った。その一方、社会面の片隅に読者との濃やかな交流を柱にした連載コラム「窓」を執筆。戦争や差別に反対の声を上げ続けた。しかし、中曽根軍拡路線の下、時代は大きく右旋回しつつあった。社の上層部と対立し、87年退社。

元気な頃の黒田清さん

 しかし、黒田さんの記者人生はここからが真骨頂を示す。新しいジャーナリズムの在り方に挑戦し 、「黒田ジャーナル」を設立、「窓」を引き継ぐ大阪発の月刊ミニコミ紙「窓友新聞」(発行部数=約3千部)を発刊。だが、黒田さんの死後、廃刊に。その復刊を求める声に背中を押されて、05年10月、黒田さんの遺志を継いだ記者たち6人によって発刊されたのが新たな月刊新聞「うずみ火」だった。

 代表の矢野宏さん(48)は、「日本社会が右傾化するなかで、いまが正念場。戦争体験者はパソコンが使えず、メールもできない人が多い。彼らの戦争反対の声をとりあげ、戦争の恐ろしさを伝えていかなければ」と話す。

 きな臭い時代に体を張って立ちはだかった黒田さん。そこが矢野さんのめざすジャーナリスト像と重なる。「うずみ火とは、灰に埋もれた炭火。社会に埋もれた声に耳を傾けて発信していこうとする決意を名称に込めた」と矢野さん。

 B5判32ページの紙面にはイラク戦争に傭兵として参戦した民間人たちへのインタビュー、沖縄戦、大阪府・泉南地域に強制連行された朝鮮人労働者、「大阪・橋下改革の問題点」などの硬派な記事が目立つ。また、「窓友新聞」の姿勢そのままに読者の声を重視、投稿欄に4ページを割いている。部数は約650部だが、熱心な読者から毎月50通は届く手紙やメールが記者たちを励まし続けている。

「うずみ火」の最新刊

 最新刊の5月号は、「変わらぬ弱い立場への優しいまなざし」とのタイトルで随筆家の岡部伊都子さんの死去(享年85)を大きく伝え、「たおやかな筆致で、沖縄、朝鮮、被差別部落、アイヌなど、虐げられてきた人たちの痛みに共感し、小さな声をすくいあげてきた」とその生涯を称えた。

 矢野さんは「黒田さんも、岡部さんも世の中を大上段からではなく、庶民の目でみつめ、ささやかな幸せを破壊する戦争や差別を憎み、闘った。その過程で人と人とを出会わせることが大好きだった。お二人の遺志を継いでいきたい」と語る。「うずみ火」は一部300円、問い合わせは同編集部(TEL 06・6375・5561)。(朴日粉記者)

 黒田清さんを追悼し平和を考えるライヴ 出演・新井英一さん、司会・露の新治さんなど。26日、(土)、午後1時開場、1時半開演、会場=クレオ大阪東(JR環状線「京橋駅」南口下車徒歩7分)、入場料前売り=3000円(当日=3500円)。問い合わせ=TEL&FAX 06・6375・5561。

[朝鮮新報 2008.7.11]