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〈人物で見る朝鮮科学史−63〉 中世末期の科学文化A

門外不出の銀の精錬技術

現在の端川の地下資源

 07年6月、島根県の石見銀山がユネスコの世界文化遺産に登録された。石見銀山は16世紀初めに発見され、その後、約400年間に渡って採掘された世界有数の銀山である。当時、日本は銀の産出国として知られ最盛期には世界の3分の1を占めるほどであったという。その主要産地である石見銀山は博多商人・神屋寿禎によって本格的な開発が始まるが、彼は朝鮮との交易を通じて積極的に技術の導入を試み、1533年に伝来した精錬技術「灰吹法」によって銀の産出量を飛躍的に伸ばしたという。「朝鮮王朝実録」によると1539年に柳緒宗という人物が日本人に鉛を精錬して銀を造る技術を教え処罰されたという記述があり、この頃、銀の精錬は門外不出の先端技術であったことがわかる。なかでも、もっとも重要な技術が1503年に朝鮮咸鏡南道端川で開発された「端川煉銀法」である。

 端川は現在でも鉛や亜鉛、マグネサイトの世界的産地として知られ、南北共同開発計画が推進されているが、銀はおもに鉛鉱石に含まれている。端川銀錬法はその鉛と銀を効果的に分離する技術で、考案したのは金儉同と金甘弗の二人である。しかし、彼らは一介の匠人(技術者)に過ぎず、どのような経歴の持ち主なのか何も知られていない。逆にいえば、そのような人物の名前が残されているほうが珍しく、この技術の重要性を示すといえるだろう。

「五洲書種」の端川煉銀法

 19世紀の実学者・李奎景の「五洲書種」は、端川煉銀法を次のように伝えている。炉に鉛の塊をいれ銀鉱石を並べ周囲から熱する。するとまず鉛が溶け、次に銀鉱石が割れて銀が溶け出す。そこに水をかけると銀が固まって、同時に鉛を得る。1637年に出版された中国・明時代の有名な科学技術書である宋應星の「天工開物」にも同様の方法が記述されており、端川煉銀法は当時のハイテクだったことわかる。文章にすればそれほど大げさなものではないようにも思えるが、技術には現場ならではのノウハウがありそれは経験者でなければ会得できない。ここに科学と異なる技術の特性がある。一方、灰吹法は灰を敷き詰め貴鉛と呼ばれる鉛と銀の合金を溶かし、先に溶けた鉛が灰に吸収され、残された銀を得るというもので、端川煉銀法とは少々異なる。そこで、まず端川煉錬銀法によって銀を取り出し、同時に得た鉛から灰吹法でさらに銀を取り出したのかもしれない。

 さて、生産された銀はどのように使われたのだろうか? 世宗時代以降、国内外の情勢も安定し、経済的にも農産物生産が増大していった。そして、中国との交易も絹などの高級織物を中心に増えるようになった。さらに、16世紀には東アジア諸国間のみならずポルトガルの海外進出によって交易がますます盛んとなるが、その決済は銀で行われた。銀は当時の国際通貨としての役割を果たしていたのである。(任正爀・朝鮮大学校理工学部教授)

[朝鮮新報 2008.7.25]