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〈秀吉軍の奴隷連行と朝鮮女性たち〉 平戸藩主の側室になった「小麦様」

平戸・根獅子 「小麦様」の墓

 昨年11月末、京都のあるシンポジウムで「耳塚」と奴隷連行問題を語ったこともあってか、どうにも秀吉軍の朝鮮侵略時の奴隷連行のことが気になり、九州、ことに長崎・佐賀への取材旅行を具体的に考えるようになって、2月末と5月中旬の二度、九州に行って来た。足を運んだ所は、平戸、雲仙、伊万里、有田、唐津、三川内、そして、長崎市内である。

 本年2月20日付の本紙でこのことについて問題提起をしたが、今度の取材では少なからぬ資料も入手できた。これはこれで、いずれまとめる心算であるが、この取材の旅で、殊に連行された朝鮮女性たちのさまざまな運命と、際立って特殊な在り様には深く心を動かされた。そのことを報告したい。

10万人の奴隷連行

平子・最教寺 「小麦様」の墓(法師松浦鎮信墓の奥10メートル)

 アビラ・ヒロンは「日本王国記」の中で「私はいまだに憶えているが、一五九七年太閤様が朝鮮に戦いをしかけたとき、朝鮮人、ことに女性の捕虜が多数日本に連れて来られた」と書き、さらに「この頃、私は五人の朝鮮人の娘を下女として使っていた」と書いている。また、日本人研究者姉崎正治は「切支丹伝道の興廃」で「日本人は多数の朝鮮人を捕へて、二束三文に売り、長崎でポルトガル人の輸入する絹と交易に奴隷として輸出し、商人等は占領地の朝鮮に出かけて、朝鮮人を捕へて商品の如くし」と書き、「一体、太閤様の朝鮮役でつれて来た朝鮮人の中には、幼児が中々多く、加之、戦争後にもポルトガル人に売る目的で、朝鮮から掠奪して来た幼児もあった」と続けた。ご覧のように秀吉軍の朝鮮人奴隷連行では、女性と幼児の多さが目立っていたのである。

 奴隷連行者の数について私は先の論稿で「五万を下らなかった」(「朝鮮西教史」山口正之)、「五、六万人以上」(この問題の権威、内藤雋輔氏)という数字を紹介し、私自身は「10万人」を超えるとの推測を述べた。ところで1998年に出た「長崎県の歴史」に「韓国の研究では10万人と推定されている」とあった。私は未見だが、南の研究者で私と同じような観方をする人がいたのだ。

平子・根獅子 「小麦様の墓」の標示

 私は、東京から長崎に着いてすぐ、豊臣秀吉のキリシタン弾圧命令によって26人の人がはりつけ刑になったいわゆる「26聖人処刑地」の西丘公園に行き、翌日、平戸に行った。

 平戸藩の松浦鎮信は朝鮮侵略時、兵3000人を率いて小西行長軍に編入されている。平戸港は長崎港、博多港とともに史家に朝鮮人奴隷をポルトガルの奴隷商人に売買した所とされている。また、多くの朝鮮人を連行して居住させ、高麗町と称し、この中から陶工たちを選んで平戸焼を起し、海外に名声を馳せた。

 私が平戸取材を思いたったのは、松浦史料博物館で調べたいこともあり、また、平戸港を確認し、高麗町と平戸焼の中野窯を見るためでもあるが、もう一点は「小麦様」と呼ばれる朝鮮女性の墓を探したい、との思いがあったからである。

 「小麦様」とは、平戸藩主松浦鎮信が、全羅道での戦いの時、小麦畑にひそんでいた若い美しい女性を捕えて側室にしたと伝えられる人である。この女性の名を平戸の研究者たちは「廓清」としている。松浦史料博物館蔵の「壱岐国土肥之書付」という史料はこの女性を「かくせい」と書いている。しかし、これは真を伝えていない。島津軍の大嶋忠泰は朝鮮から連行してきた娘を「カクセイ」と呼んでいる。つまり、「かくせい」は固有名詞ではない。恐らく朝鮮語の「カクシ」(若い女性)の訛ったものであろう。

 鎮信の側室となった女性は「小麦様」と呼ばれて三人の子を産んだという。その次男信正は後に平戸藩の家老となり、根獅子・獅子・生月に三千石の領地を与えられたという。その「小麦様」の墓が平戸に二個所ある。一つ目の根獅子の墓は確認されているが、二つ目がはっきりしない。

ひっそりと立つ墓石

 私はまず、根獅子の墓に行くことにした。バスでかなりな時間の所で降りてタクシーに乗り換え、墓まで案内してもらった。大変、かわった様式の墓である。自然石をたくさん積み上げた高さ80センチ幅、2.5メートルほどの方型で石塔はない。墓の入口には「小麦様の墓」という石塔が立っている。そして墓前にはたくさんな花が供えられていた。誰が供えたのだろうと思った。タクシーでバスの停留所まで戻る時、運転手が、「小麦様は島の人たちに大変慕われていた、といいますね」と言った。

 その日のうちに二つ目の墓があるとされる最教寺に行った。最教寺は、「西の高野山」と言われるほどの大きな寺であり、目に眩しい豪華な三重の塔が建っていた。この寺に歴代の平戸藩主の墓があり、松浦鎮信の墓の近くに「小麦様」の墓があるとされている。だが、最初の日、私はこの墓を見付けることができなかった。翌日、また寺に行き、寺の女の人に案内されて墓の所在を知った。うす暗い樹立のなか、墓域は広く、墓の様式も根獅子同様な自然石の高さ1メートル、幅3.5メートルほどの石積の上に、1メートルほどの3段の石塔が建っていた。根獅子の墓より一廻り大きい墓だが人に知られることなく、ひっそりとした墓の在り様には強い印象を受けた。(琴秉洞、朝・日近代史研究者)

[朝鮮新報 2008.8.1]