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〈秀吉軍の奴隷連行と朝鮮女性たち〉 多くがキリスト教信者に

 「長崎平戸町人別帳」という史料がある。江戸時代の寛永期から幕末に至る間の平戸町人別帳関連の史料である。私が持っているのは、ガリ版の覆刻本であるが、原本は平戸町の乙名(長老または名主)であった石本家のものである。この人別帳には、キリシタンから転んで、浄土宗や禅宗などに改宗させられた人々の名が記されている。

神津島 ジュリア・おたあ墓

 ここに、奴隷連行されてきた朝鮮人が17人記録されている。「高麗生れ」「母生国高麗」「父母生国高麗」となっているが、この中の11人は女性である。5人は「下女」の部で名をまき、いと、まつ、うは、かめ、という。人の「女房」となっている女性は、6人だが、名は記されていない。また、転ばされた時期は、大半が「竹中采女様御代にころび」となっているが、独り、女性で雲仙地獄で湯責めにされたものがいる。「かしや仁介」の女房である。歳68「生国高麗の者、五十一年前に長崎今町に参り、則きりしたんに罷成、当町にて水野河内様御代にきりしたんころび不申、山に入、嶋原にて男(夫)同前にころび申」とある。

 つまりこの女性は、長崎奉行水野河内の時代に拷問を受けたが、その時は転ばなかった。しかし、竹中采女の時代に「山に入り」、ということは、雲仙地獄で熱湯責めに遭い、夫と同じく転んだというのである。

 朝鮮人転宗者たちには、日本人転宗者にない条件がついていた。例えば「下女いと」について「右のいと、高麗人にて御座候故、町中吟味の上、慥成、請人(引請人)立てさせ、請状、組中に召置き申し候」とあって、改宗しても、朝鮮系は町中の者が監視せよ、というのである。奴隷連行されて、当人はようやくにして普通の生活をしようとしても、周囲には厳しい監視の眼が光っていたのである。

本名知らぬまま

毎年墓前祭が地元の人の手で行われてきた朝鮮国女の墓(高知県幡多郡大方町)

 ここでわれわれは妙なことに気づかされる。それは、彼女らには本名が残されていないということである。

 「下女」のまき、いとなどは、日本名であって本名ではない。そういえば、「小麦様」もイサベルも本名が判っていない。男でも、キリシタンなどになった者には本名が記されていないが、陶工となってその窯元になった人々には、きちんと本名が残っている。有田焼の祖は、李参平、平戸焼の祖は巨関、萩焼の祖は李勺光、そして薩摩焼の始祖たちは、申、李、朴、姜氏らの17姓が残っている。また、「文禄・慶長役における被瑞lの研究」という名著で有名な内藤雋輔も、その著で、日本に定着した被連行者で一家をなした男たちを紹介している。本名の判らぬ人もあるが、多くは本名も記されている。だが、女性の場合、四国・中国・近畿地方に連行された人々の話や墓の話はあるが、やはり本名は記されていない。

 キリシタン、ジュリア・おたあは改宗を拒否して駿府城大奥を追われ、大島に流され、次に新島に、そして、最後に神津島に流されて、この地で死に、墓があるが、これも本名は知れない。

 さらに、本紙昨年8月24日付に載った「朝鮮国女の墓」の記事と写真は印象に残った。土佐の長宗我部氏の一部将が朝鮮から連れ帰った女性の墓である。この「朝鮮国女の墓」には20数年前、日本・朝鮮人有志によって彼女を顕彰し、慰霊する墓碑が建てられているとある。そして、この墓にも名はない。

 奴隷連行されてきた朝鮮女性たちには、記録や墓は存在するのに、なぜ本名は記されていないのだろうか。非常に幼い時に連行されてきていたのなら、記憶が定かでなかった、といえる。しかし、10代半ばの人もいる。自己、および、家系について、知らないはずはない。

 私は、彼女らは、自分自身を自ら封殺してしまったのではないか、と考えている。彼女らは、日本軍の野蛮極まる侵略によって、父を殺され、母を殺され、兄弟姉妹を殺され、多くの親しい人たちが殺されるのを目撃し、体感した人々である。その仇の国に連れてこられ、日々、生かされている。彼女らは己れを責め、生きたまま、自らを封殺することによって責めを果たそうとしたのではないか。

神の下での平等

 今一つの問題点は、被奴隷連行者になぜキリシタンになった者が多いのか、ということである。

 豊臣期の末期、および江戸期の初期における京阪地方の一部、九州地方、殊に長崎、大村、平戸などは時期は非常に限られるが、いわばキリスト教の全盛期であった。「豊臣秀吉の没年、1598年から1614年の徳川家康の禁教令までの歳月は、長崎の教会の黄金時代である」(「長崎のコレジヨ」純心女子短期大学、1985年9月)といわれているが、この地には、束の間ではあるが、制約の厳しい封建日本とは全く異なるヨーロッパ流の風が吹いていたのである。そして、多くの朝鮮人が、キリスト教の信者になっていた。

 心は一つ。奴隷連行された朝鮮人は命がけの抵抗として日本流を拒否して、貴賤を問わず、神の下での平等を説く宣教師の言を受け入れたのであろう。宣教師たちの本国、ポルトガル、スペインの大航海時代における布教と植民地化政策の二面性には全く気づくことなく。

 去りながら、平戸の根獅子で「小麦様」の墓に供えられていたたくさんの花を見て、私はなぜかホッとし、救われる思いであったのは事実である。(琴秉洞、朝・日近現代史研究者)

[朝鮮新報 2008.8.8]