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〈人物で見る朝鮮科学史−64〉 中世末期の科学文化B

「王朝実録」に名を残す医女

宴席に参加する医女たち(左下)と官妓たち(右下)

 内医院の一介の医女を主人公としたドラマ「チャングムの誓い」が大きなブームを巻き起こしたことは記憶に新しい。リ・ヨンエ扮する主人公の健気な姿に涙ぐみ、彼女を支え身分を捨て連れて逃げようとするミン・ジョンホに男のロマンを見た人も多かったのでないだろうか。さらに、華麗な宮廷料理と東洋医学のさまざまな処方も見所の一つであった。

 「男女七歳にして席を同じうせず」は儒教の教えだが、そのため両班の婦女子は病気になっても医師にかかろうとせず悪化させることもあった。そこで、太宗6年(1406年)に官妓の中で聡明な女子に医学教育を施し医女とする制度を設けた。

 しかし、官妓出身ということで彼女たちの身分は低く、宴席の給仕をさせることも日常茶飯事であった。それがもっとも酷かったのが暴君といわれた燕山君で、ドラマでも兄である彼を追放し王となった中宗が、その悪習が残っていることを知り激怒する場面が描かれていた。

 さて、「中宗実録」にチャングム(長今)の名前が最初に表れるのは1515年のことであり、その最後の記録が1544年10月辛卯条の「余の病については女医長今が知っている」という中宗の言葉である。ドラマの製作者はそれを膨らませ、彼女を王の侍医と設定し波乱万丈の物語を作って見せたのである。では、ドラマはどれほど真実に迫るものなのだろうか?

医官とともに医女の往診を請う大妃の手紙

 実は、長今の名前が最初に表れる「中宗実録」1515年3月戊寅条にも、興味深いことが書かれている。それは、王妃のお産で長今は功があり賞を与えるべきだったが、最後に事故があったので罰せられようとした。そこで、賞を与えないかわりに罰も与えないようにすべきというものである。長今の波乱に満ちた人生を示唆するような記述といえる。

 さらに、1524年12月乙巳条の中宗の言葉も重要である。それは、医女の禄には「全逓兒」と「半逓兒」があるが、今、「全逓兒」を受けるものはいない。大長今は医術に優れ宮中に出入りして病気を診ている。「全逓兒」を長今に与えるべきであるというものである。

 逓兒というのは官位がないものが受ける禄奉で、長今が優れた医者であることを王自らが認めていたことがわかる。実録には長今と大長今の名前が記されており別人とする説もあるが、同時代に同じ名前の医女がいた可能性は低い。また、前述の記録にも長今と大長今をはっきりと区別しているわけでもないので、やはり長今は一人であろう。

 長今のほかにも世宗の虫歯を治療したという長徳、宣祖時代に医術が優れたといわれたソンウォル、英祖時代に針術で名を高めたエジョンなど、実録にその名を残す医女たちは多い。本欄ではこれまで多くの科学者・技術者を取り上げてきたが、残念ながら女性は一人もいなかった。そんななかで「王朝実録」にその名を残す医女たちは立派である。なかでも、王が認めた女医・長今は、やはり朝鮮科学史上特記すべき人物である。(任正爀・朝鮮大学校理工学部教授)

[朝鮮新報 2008.8.22]