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〈本の紹介〉 浅草橋場・すみだ川

強烈至極 阿鼻叫喚の記憶

 この本は著者の自伝であり、遺作。1986年に刊行されたが、最終章は推敲できず、そのまま出版された。著者は1917年11月、浅草橋場生まれ。父は小企業(窯業)経営者。「浅草の有力なボスで、警防団長」(後に浅草区議)。母は内科の開業医。府立七中(現隅田川高校)から早稲田大学に進み、軍隊経験を経て文芸評論家に。作家・宮本百合子や古代日朝関係の研究などで知られる。

 本書には著者が6歳のときの震災体験も描かれているが、旧四つ木橋の状況や、彼の父親の言動が当時をリアルに再現している。

 父親の水野一善は、「どちらかといえば権力志向で、まず巡査として相生警察署に勤め、震災の年の始めには、のちの特高、当時の高等警察官になり、私服づとめで警察にかようにまでなっていた」が、震災当時は「次弟の急死で、致し方なく橋場へ戻っ」ていた(窯業を継ぐために)。以下は関東大震災の朝鮮人虐殺を目撃した第1章冒頭部分のリアルな描写である。

 …敗戦の年をさかのぼること23年。1923年9月1日。

 生家の浅草橋から北東へ約2キロ半、隅田川をこえて、荒川放水路にかかる旧四つ木橋の西詰。その夜半、わが家の方向にあたる向島側から人々の異様なけたたましいばかりのざわめきが近づいてきた。私は極度の疲れでぐっすり眠っていた。目がさめた。疲れと興奮とでウトウトしていた。荒川の河川敷に橋桁をたよりに蚊帳を吊って、その蚊帳ばりのなかで息をこらす私たち、母と生後十日足らずの末妹・秀子、そして六歳になる私。母子にはその異様の極限ともいうべきざわめきが何を意味するか、まったく見当がつかない。

 我が家の方、向島側、西南方向は褐色を帯びた紅蓮の炎におおわれている。

 阿鼻叫喚ともいうべきものがけたたましさに変わった。我々の頭上あたりまで迫ってきた。その阿鼻叫喚がいくらかおさまったと思われた時、母がマッチをすった。マッチを上下左右させた。押し殺したギャッという叫びが母の口を辛くもついて出た。「血よ、血よ」。私の目はパチッと開いた。母はもう1本、もう1本とマッチをつけた。橋上から滴り落ちる液体が蚊帳を伝わる。赤褐色。血だ。私には阿鼻叫喚のなかに「アイゴー(哀号)」と泣き叫ぶ声がまじっていようなど、聞き分ける分別などあろうはずもなかった。やがて蒲団の上の白い毛布に、はっきりその血痕が印されている。私はただただ震えおののいた。母も私の両手をにぎり、やがて上半身をしっかり抱きしめ、身震いが止まらない。その身震いが、そのまま、私に伝わった。

 生涯、私が母に暖かくも冷たくも抱かれた記憶は、この時、ただ一度だけである。

 やがて暫くして父がもどってきた。

 「おい、津る、明善はどこだ」…「やった、やったぞ、鮮人めら十数人を血祭りにあげた。不逞鮮人めらアカの奴と一緒になりやがって。まだ油断ならん。いいか、元気でがんばるんだぞ」

 そういうなり向島側に駆け戻っていった。炎を背に父のシルエットが鮮やかだった。

 六歳の私の耳には鮮人≠フ意味もアカ≠フ意味も当然わかりっこなかったが、ただ、蚊帳のなかの白布にたれた赤い血の色が連想されて、アカ≠ニ父が云ったことだけは鮮烈に記憶に残っている。

 後年、早稲田へ入ってそのことを詰問すると、母は「そんなこと忘れなさい」と云い、父は「大杉栄夫妻さえ憲兵隊に殺されたんだ。当たり前のことだ」と突っぱねた。

 1923年、大正12年9月1日の関東大震災は初震の恐ろしい記憶以上に、上述した旧四つ木橋下荒川河川敷で体験した歴史的な朝鮮人大虐殺の一コマが強烈至極に私の幼い脳裏に焼きつき、私からその前後数ヵ年の記憶を奪ってしまった…(文責は「グループほうせんか」代表世話人・西崎雅夫)[水野明善著、新日本出版社(品切れ、重版の予定なし)、問い合わせは東京・墨田区内の図書館まで]

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【朝鮮人殉難者追悼式の案内】

 6日(土)、午後3時より。
 場所=隅田川荒川河川敷 木根川橋下手、京成線八広駅(各停のみ)下車徒歩5分。当日・連絡は「ほうせんか」
 問い合わせ=090・6563・1923(3〜4時は留守番電話)

[朝鮮新報 2008.8.29]