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〈生涯現役〉 「ムグンファ」結成30周年を迎える〈下〉−チョン・ジョムドルさん

「人情や思いやりを大切に」

 20歳で13歳年上の夫と結婚。無学の人が多かった時期、読み書きができて、演説のできた夫をオモニが気に入ったのだった。

 結婚後は、女性同盟山口県本部小野田支部の宣伝部副部長(非専任)として活動し始めた。一方で土方をしながら、子育て、活動に励んだ。「苦しいとは思わんかった。食えなくとも何とかなると楽天的だった。若さと情熱のおかげかな」。その苦労があったから、今があると鄭さん。

暑い夏に署名活動

女性同盟愛媛県本部の委員長として奮闘した日々

 帰国運動の時には、蒸し暑い夏でも幼子をおぶり、電車で40分かかる道のりを当時の委員長とともに歩きながら、日本人の家を一軒一軒訪ねた。賛同の署名をもらえるのは、10件中2件ほど。それでも、めげずに毎日歩き回った。バスを貸しきって、山口県庁まで行き、デモもした。

 「当時を振り返っても、悲しい、しんどいという思いはない。それよりも、『帰国船が出た!』という達成感の方が大きかったから」と満足気に話す。

 それから、夫の活動の足跡とともに、山口県本部の食堂の賄い婦、女性同盟の下関支部宣伝部副部長(非専任)、徳島県本部組織部長を経て、78年11月に愛媛へ引越してきた。

 翌年の79年には愛媛県本部副委員長(非専任)に就任し、その後、「ムグンファ」を結成した。忙しいオモニたちの日常をやりくりしながら、さまざまな活動を組織した。オモニたちも「鄭さんが言うなら」と仕事や子育ての合間を縫って訪れた。「みんなの喜ぶ顔が見たくて」と、毎年、慰安旅行も計画してきた。

 81年から89年まで同本部の委員長(非専任)も務めた。

「生徒たちが目を輝かせ、一生懸命に歌い踊る姿を見るだけで涙が出る」と鄭さん

 学校で満足に学べなかった分、若いころはとくに漢字や朝鮮語の勉強にも熱を入れた。しかし、周りの活動家は朝高や朝大を出た人ばかり。討論では、理論的な意見ばかりが飛び交った。それに比べ、たどたどしい口調でしか話せない自分が悔しかった。

 ある年の2月。女性同盟中央で委員長会議が行われた。そこで発表する討論文がうまく書けなかった。しかし、活動を通して、自分の体で感じた素直な思い、経験をそのまま文に表した。その熱い思いは参加者にしっかりと伝わった。「地に足をつけた活動をしてきたからこそ、実感がわいてくる」と当時の中央委員長がほめてくれた。「心の底からうれしかった。一生懸命に活動してきたかいがあった」と顔をほころばせた。

 また、愛媛に来てからは、家計を支えるために焼肉店でバイトもしていた。朝9〜4時まで女性同盟の活動に従事、家に帰りご飯の支度を終え、5時からバイト先へ。働き詰めの日々だった。風邪を引いても、体調が悪くても、休む暇はない。「良くも悪くも、それが当たり前だった」と。

 90年からは焼肉店を営み、7年前まで身を粉にして働いてきた。

「ウリハッキョを守る」

四国初中の校舎

 愛媛に根を下ろし30年。活動の傍ら、四国唯一のウリハッキョをいつもそばで見守ってきた。そんな鄭さんをはじめ、同胞たちの手によって、四国朝鮮初中級学校の灯火は煌々と燃え続けている。

 「どんなことがあっても、学校を守らなくては。生徒23人の目の輝きを見たら、何かをしなくてはいられない。学校があってこそ、組織がしっかりしてくる。学校は同胞が集まる場」

 学校の行事があると、顧問たちに声をかけて回る。「年寄りが行って何するんか?」という声もあるが、「若い人でも年寄りでもいい。一生懸命に朝鮮語を学び、民族の歌を歌い、踊る生徒たちの姿にみんなが拍手を送り、激励しなくては」と、熱い気持ちに衰えはない。学校には行事ごとに足を運んだり、自宅の畑で採れた野菜を食堂に持って行ったりと、人一倍思いは強い。

 永きに渡り、多くの同胞とふれあい、その輪を引っぱってきた鄭さん。「人情や愛情、思いやりが大切。若い人たちにはそれをしっかりと持っていてほしい」と語りかける。

 また、「自分のやってきたことに後悔はない」「これからも『ムグンファ』の活動を続けられるよう、足が動くかぎりがんばる」と朗らかにほほえんだ。(姜裕香記者)

※鄭点★(★=石の下に乙)

[朝鮮新報 2008.9.3]