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〈人物で見る朝鮮科学史−66〉 壬辰倭乱とその副産物@

亀甲船、李舜臣将軍の智略

朝鮮大学校歴史博物館に展示されている亀甲船の模型

 1592年、日本の天下統一をはたした豊臣秀吉はその矛先を朝鮮に向けた。戦いに明け暮れた日本の大名とは異なり太平をむさぼっていた朝鮮王朝の両班貴族たちには危機感が薄く、日本軍の侵略をたやすくゆるし、一時は首都である漢城(現在のソウル)まで占領される始末であった。

 しかし、全国各地で義兵が立ち上がり徐々に日本軍を撃退し始めるが、とくに李舜臣将軍率いる水軍の活躍はめざましく、そこで決定的な役割を果たしたのが誰もが知る亀甲船である。

 亀甲船=その名の通り竜頭で背を亀の甲羅のように鉄釘で覆われたような特殊な戦艦は、一度見ただけで強烈な印象を残し、さまざまな伝説を残している。その最たるものは、その背の部分が鉄板で覆われているというもので、知人はドイツのある博物館で潜水艦の原型として紹介されているのを見たことがあるそうである。

 亀甲船が鉄板で覆われていたかどうかは、現在も論争の的となっているが、その発端は李舜臣将軍に敗れた日本の武将が記した「高麗船戦記」の「大きな船の中でも3隻が盲船で、鉄で要害し」という文章にある。

 盲船とは外から中が見えないという意味で亀甲船を指しているが、自分たちが敗れたのは亀甲船のような強力な戦艦があったためと、ちょっと弁明がましい感がありその信憑性に疑問が残る。

「李忠武公全書」の亀甲船

 現在、よく見る亀甲船の図は1795年に第22代正祖王が李舜臣の偉業を讃えて編さんを命じた「李忠武公全書」に挿入されたものである(ちなみに、「忠武」とは李舜臣将軍の諡号であるが、武人としてこれ以上の名前はないだろう)。

 亀甲船の構造についても詳しく説明されているが、鉄甲船はおろか鉄釘で覆われているとの記述はない。ただし、それは当時の亀甲船に関するものなので、壬辰倭乱時のものとまったく同じとはいえない。では、実際はどうだったのだろうか?

 壬辰倭乱時の亀甲船の形状については、「宣祖修正実録」1592年5月1日条に唯一といえる記録が残されている。

 そこには、背を亀の甲羅のように板木で覆い、十字型の通路の他は錐や刀を上向きに刺して戦いの場では筵や草で覆っている。前面には竜頭を作りその口は砲門とし、左右および竜尾にも筒を備え4面から砲を撃つことができたとある。まさに、今日のイメージと一致する。

 当時の海戦は、敵の船に近づき矢を放ったり、兵士が乗り移って攻撃するという接舷戦であった。ところが、亀甲船はそれを不可能とするばかりでなく、敵船に近づき砲撃し堅固な船体を衝突させて撃破するという西洋の衝撃戦に近く、大きな威力を発揮した。亀甲船を建造した李舜臣将軍の智略である。(任正爀・朝鮮大学校理工学部教授)

[朝鮮新報 2008.9.19]