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〈人物で見る朝鮮科学史−67〉 壬辰倭乱とその副産物A

許浚が書いた「東医宝鑑」

許浚の肖像画

 壬辰倭乱の戦火のなか避難する宣祖と行動をともにし、その相談相手となっていた一人の医者がいた。後に「東医宝鑑」を著す許浚である。

 彼は、その道中で人々の惨状を目の当たりにして、優れた医学書の必要性を痛感したという。もっとも、これは推測の域を出ない話なのだが、ただ、王が許浚らに医学書の著述を命じたのが1596年のことであるから、この戦争によって医学書の必要性が高まったのは事実だろう。当初、許浚は何人かの学者とともに作業に着手するが、1598年の秀吉軍の再度の侵攻によって学者たちは散らばり、その後は許浚一人がその作業を行う。

 許浚は両班家系の出身であるが、庶子に生まれ本来ならば官職の道を閉ざされていたが、医師として早くから頭角を表わし宣祖の侍医となった。宣祖は壬辰倭乱時の功績を高く評価して1604年に彼に官位を与え、1606年には医学上の功績を認めて「陽平君」という称号とともに文官第一級の官位を与える。

 しかし、それを妬んだ両班たちは、許浚が不在の時に宣祖が死亡したことの責任を追及し、彼から官職を奪い流刑に処す。配流地でも彼は医学書の執筆に専念するが、彼を敵対視する両班は死刑にしようとする。そのことを知った光海君は幼い頃許浚の治療によって一命をとりとめたこともあり、彼を自身の侍医としてソウルに呼び戻す。1年後にその医学書は完成するが、15年の長い歳月、許浚が心血を注いで書き続けたその著作こそ「東医宝鑑」である。

「東医宝鑑」の内臓図

 「東医」は中国の「漢方」に対する朝鮮固有の医学を意味するが、「東医宝鑑」はその題名が示すように東医の粋を集めた医書で、世宗時代の「郷薬集成方」「医方類聚」とともに朝鮮の三大医書と呼ばれている。

 「東医宝鑑」は完成して3年後の1613年に25巻25冊の活字本として出版されたが、朝鮮だけでなく中国や日本でも出版され、現在まで用いられている。

 ところで、韓国ドラマによって許浚の名は広く知られるようになったが、偶像化された面もなくはない。その典型はドラマのクライマックスといえる師の解剖の場面であるが、残念ながらそれはフィクションである。というのも、「東医宝鑑」の内臓の図は実際のものとちょっと異なるからである。

 許浚は「東医宝鑑」を書いた翌年にも咸鏡道から流行しはじめた発疹チフスが全国に広がるのを防ぐため「新纂辟瘟方」を書き、さらにそれが収まらないうちに猩紅熱が流行した時にはその治療法として「辟瘟神方」を書いている。

 さらに「諺解痘瘡集要」「諺解救急方」「諺解胎産集要」などのハングルの医書も多い。許浚がハングルでそれらの本を書き直したのは、人々が手軽に読めて利用できるようにとの意図によるが、ドラマと同様、許浚は大衆のために奮闘した立派な医者だったのである。(任正爀・朝鮮大学校理工学部教授)

[朝鮮新報 2008.10.3]