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本紙で「関東大震災下の朝鮮人虐殺問題」を連載中の琴秉洞氏が死去

虐げられた同胞の視点貫く

 朝・日近代史研究者で、本紙に「関東大震災下の朝鮮人虐殺問題」を連載中だった琴秉洞氏が、9月24日、肺炎で急死した。享年81歳。

 病に倒れる2、3日前、電話があり、「雑誌『イオ』(10月号)を読んでくれたか」と聞かれたばかりだった。そこには生涯のライフワークとなった「関東大震災時の朝鮮人虐殺」のことを初めて知った日が、日本敗戦の日の「玉音放送」に落涙した日と重なる日だったことが記されている。「俺の恥をさらしてしまったよ」としみじみと語っていた口調は、いつも通りだったのに…。

取材打ち合わせ中の在りし琴氏

 そして、同氏が新報の記事として取り組んでいたのは、南米のコロンビア大統領が実は、秀吉の朝鮮侵略の際に、ポルトガルに奴隷連行された朝鮮人の子孫であった、というものだった。この記事も「もうすぐ渡せる」ということだったので、近々お会いする約束をして電話を切った。

 期せずして今年は関東大震災から85年。琴氏は年初からますます意欲的に関係資料の精査と多方面の取材、打ち合わせに慌しい日々を送っていた。9月初めのシンポと同時に刊行が決まっていた「震災・戒厳令・虐殺」の執筆にも力が入っていた。その傍ら昨秋京都で行われた「耳塚」のシンポの講演録の執筆も大車輪で進めていた。

 本紙編集者として、琴氏の仕事ぶりに間近で接して約25年。氏には歴史の光と影を追い続けた15冊の著書がある。その一部を紹介すると−増補新版「金玉均と日本」「日本人の朝鮮観」「耳塚」「日本の朝鮮侵略思想」「関東大震災と朝鮮人」(姜徳相氏との共著)のほか「従軍慰安婦」関連書籍、「日韓問題シリーズ・腐敗する政治」など。そのうち5冊ほどが朝鮮時報、朝鮮新報紙上で連載、日本の出版社から刊行された。

 とりわけ琴氏が心血を注いだ一冊が朝鮮近代の開化派の指導者・金玉均についての大著(緑蔭書房、01年刊行、1025ページ)である。

 金玉均は長い間、親日派の烙印を押されてきたが、金日成主席は、1958年の著作で「一部の学者は、深く研究もしないでかれに親日派の烙印を押した」と批判、「さらに研究を深めるべきだ」と指摘した。

 朝鮮人にとって「親日」というのは、読んで字の如く、の意味ではない。「売国的」という恥ずべき意味が込められている。悲運の政治家に長い間浴びせられた汚名。琴氏は、金玉均の足跡を追って、日本各地、小笠原、上海へと執念の旅を続け、ついにゆがめられた評価を正し、名誉回復を実現した。琴氏は学者としてやるべきことをなしとげたのだ。この研究が南の歴史学会に及ぼした影響ははかり知れない。

 そして、昨年80歳になった琴氏が追ったのが「秀吉軍の奴隷連行と朝鮮女性たちの運命」である。女性史から朝鮮侵略の実態を追及した力作。5月に約1週間にわたって長崎−平戸−有田−伊万里−唐津−佐世保に飛ぶハードな現地取材を断行した。その成果は本紙文化欄で3回にわたって掲載され、好評を博した。

 琴氏にとっては初めてとも言える女性史への挑戦であった。いささか手前みそで言えば「近代史研究を多彩にやって来られたのに、女性史研究が少ないですね。先生、そのミッシングリンクを埋めましょう」との提案に琴氏は快く乗ってくれたのだった。最後まで、史実を前に瑞々しさと好奇心を持ち続けた。

 9月25日、葬儀であいさつした喪主の長男・仁夏氏は、激動の時代を生きた父の軌跡を振り返りながら、「福岡県鞍手郡の炭鉱夫の長男として生まれ、生まれたばかりの妹を亡くし、5歳のときにはオモニを亡くし、11歳のときに父を失い、20代でたった一人残った姉を肺結核で亡くした天涯孤独の身となった」と語った。

 日本の侵略によって奈落の底に突き落とされた同胞の一人として、その苦難の体験をバネに、琴氏は生涯をかけてその恨に立ち向かい、虐げられた同胞の視点から朝・日近代史を照射する新たな歴史学の地平を切り開いた。その血のにじむ臥薪嘗胆の歳月に幕が下りた。ゆっくりお休みください。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2008.10.3]