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琴秉洞先生と私−追悼に代えて

「清冽な研究姿勢を継いでいきたい」

今年8月、東京で開かれた関東大震災85周年追悼シンポで講演した琴秉洞先生(右端)

 先生との学問的出会いはこの「耳塚」という書物からであった。はや30年も前になる。

 豊臣秀吉の朝鮮侵略軍が、殺りくした朝鮮人の鼻をそぎ、耳や首も時には切り取り、戦勝の証とする塚を築いてそれらを埋め「鼻塚」と称した。生きたまま鼻をそぐことも多かった。合わせて10万人分。

 今では「耳塚」と通称されている。

 京都国立博物館の北西向かいにある。

 耳塚についての先行研究は論文がほとんどで、先生のこの著作が耳塚にかんする初めての体系的、総合的研究書であると思われる。

 私は研究の必要上、日本各地の朝鮮と関わる遺跡の調査を長年行って来たが、同胞のサークルや団体、そして日本人の多くの方々の依頼で、そのような遺跡の探訪によく出かける。京都を巡る時には必ずこの「塚」を訪れ花を手向ける。

 この「塚」での解説には、強く先生の「耳塚」を念頭に行う。

 「よき書物に出会うことは、大変すぐれた人と会話を交わすようなものである」から、ひとしお学恩を覚えるのである。

「朝鮮人の日本人観」

 この本は1986年、先生ともう一方との共編で出刊された。

 朝鮮の、主として近世以後の、歴史を彩る有職者による「日本人観」をコンパクトに、そして簡明に紹介した本である。

 この本に「寄稿なさい」と先生に慫慂された。姜の日本人観を、とのことであった。

 姜は高名な儒学者で、壬辰・丁酉戦争(「文禄・慶長の役」)時、藤堂高虎の軍に捕われ約3年間日本に抑留された。その間の該博な日本の見聞を「看羊録」として世に残した。

 「看羊録」は私にとって大変感慨深い本である。健康を害して入退院を繰り返していたさ中、心ない人々の中傷に苛まれていた時に読んだ。

 姜の清冽な生き方に学ぶことが多かった。

 壬辰戦争で日本に連行された朝鮮人は約5万人は下らないと考えられるが、その中に知識人も相当数いた。中には長い抑留に耐え切れず大名に随身して安穏な生活を求めたり、帰国を断念して知識や技術で日本での定住生活を選んだりする者も多出した。

 姜もある大名から随身するよう誘われたが一貫してこれに応じることはなく、ひたすら、日本の地誌や諸大名の流動的状況、そして日本人の習俗、性格などについて詳細な記述に勤め、さらには近世日本朱子学の発展にも多大な影響を与えた。抑留3年にして帰国できた。

 そのような「看羊録」を平凡社の東洋文庫の一冊として、詳細な訳注を附して、1984年出刊した。

 それを読んだ先生が「ぜひ原稿を出しなさい」とおっしゃる。

 お会いして半日も話し合った。

 先生の生い立ちも聞いた。今の仕事(研究ではなく)の、「なんとも言えない」内容も聞いた。研究にかける深い、熱い思いも聞いた。民族に注がれる強いまなざしにも接した。激することなく、静かに、淡々と話された。

 姜や節を曲げることなく生き抜いたソンビの清冽な像と重なる、実に充たされた半日であった。

耳塚から朝鮮通信使へ

 2007年11月24日、京都で上記のような集会を開いた。

 パネラーとして先生にも参加を願った。目的は「塚築造410年に当り、この壬辰・丁酉戦争の全体像を明らかにするとともに、平和と友好の象徴であった朝鮮通信使復活400年が持つ歴史的・現代的意義を確認し、…国民相互間の理解と友好…を深める」ところにあった。

 シンポでは記念講演をなさった上田正昭先生をはじめ、琴秉洞、仲尾宏、貫井正之、韓国からの金文子という諸先生方の深い学識に基づく報告と討議が展開された。不肖ながら私がコーディネートをつとめた。

 先生は「耳塚築造意図と秀吉の『慈悲心』問題」「壬辰・丁酉戦争下の奴隷連行問題」の2テーマで報告、討議された。

 通路にまで人が座るという大盛況裏にシンポは終わった。大変ありがたく、そして有意義な集まりであった。

 翌日、午後に2時間ばかり先生と語りあった。

 「大変意義深い、いい集まりだった。報告する機会をつくってくれたこと、感謝します」と言われた。

 話が研究に及んだ。私は言った。

 「先生、10数冊も本を世に問いましたね。でも、まだまだ、もっと、と考えているでしょうが…」

 先生が答えた。

 「まだ力量が不足で…、やるべきことがあまりにも多くて」

 私は、昔読んだある本の一節を思った。

 「かくも僅かしかなさず、かくもなすべき事多くして」

 黙ったまま、私は先生の謙譲を強く感じていた。

 先生と向かい合って話したひとときはこれが最後であった。

 9月24日、先生の訃報に接した。本紙記者からであった。急であった。言葉を失った。10日ばかり前に本の出版のことで電話したばかりであった。

 先生は私より一歳上である。私は先生よりもう少し生きたいと思う。先生の清冽さを継いでいきたいと思い、先生の研究姿勢からもっと学びたい、と思い、自身の研究をもう少し実現させたい、という思いからである。先生にならって、「わが生や涯りあり、而して知や涯りなし」。

 先生、いまは安らかに、安らかに眠られんことを。(朴鐘鳴、「民族を考える研究会」代表)

[朝鮮新報 2008.10.20]