top_rogo.gif (16396 bytes)

〈朝鮮と日本の詩人-70-〉 倉橋顕吉

わびしいアリランの調べ

 怒っているのだろうか、/なだめて/居るのだろうか、「朝日」をくわえた男の/目が鋭い。/朝鮮の少女はじっと/うつむいて/泣きだしそうな顔を/こらえ、/扇子の紐をまいたり/ほどいたり、/さっきから/駒下駄の歯が小さく/コンクリートをうって居る。/その音は/私の胸にしのびこむ。カタカタコト…/どこまで/ひろがってゆくのか/その音は/この胸に波紋をつくる。

 あの扇子を/いじって居る幼い手、/胸のふくらみさえ/あんなにおぼつかない、/白い胞衣の胸/唾をとばし乍ら/殆んど判らない言葉で/男はしゃべって居る/赤いひげを/威嚇するようにふるわせ−

 少女の幼い/頭に往来するのは/遠い故郷のポプラにかこまれた風景か。/追われてきた生活の冬のように/凍結した思い出か。

 どこに/安住の地が求められよう−。(以下3連29行略)

 やがて、/ほこりだらけの/この世の片隅で、/どこか/うらぶれた人達の饗宴によいつぶされて、/あなたは/生活の歌を/わびしいアリランのしらべに/くりかえすだろう。

 客車は消え去る/駒下駄の音よ。(以下3連11行略)

 「駅にて」の部分である。「朝日」はたばこの名柄。詩のシチュエーションは、居丈高な女衒に脅かされながら汽車を待つ朝鮮の少女の悲哀の姿である。少女の悲しみと痛ましさが駒下駄の音と「わびしいアリランのしらべ」で引き出されている。「どこに/安住の−」の2行は、人身売買の悲劇が単にこの少女に限ったものでなく、植民地化の朝鮮民衆にふりかかっていた悲運であることを、詩人が知っていたことを示唆している。

 倉橋顕吉は1917年に高知県に生まれて京都府立第二中学校で学び、京都映画人連盟に勤務し治安維持法違反で検挙されたことがある。詩誌「車輪」「詩精神」「詩人」に幾多の抵抗詩を発表したが30歳で病没、評価されたのは敗戦後であった。吉本隆明にすぐれた「倉橋顕吉論」がある。この詩は35年10月に「詩精神」に発表したもので、私家版詩集「みぞれふる」(81年)に収録された。(卞宰洙・文芸評論家)

[朝鮮新報 2008.10.20]