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〈人物で見る朝鮮科学史−69〉 壬辰倭乱とその副産物C

朝鮮侵略に反発した千利休

朝鮮白磁徳利(右)と白磁盌

 壬辰倭乱のことを日本では「焼き物戦争」と呼ぶことがある。というのは、この戦いに参加した大名たちがこぞって朝鮮の陶磁器を持ち帰ったばかりでなく、数多くの陶工たちを連行し領内に住まわせ陶磁器を生産させたからである。

 有田焼、唐津焼、薩摩焼、萩焼などの日本を代表する陶磁器は、連行されてきた朝鮮陶工たちによるものである。とくに、佐賀県有田の泉山で白磁鉱を発見し、日本で初めて白磁を生産したといわれる李参平の名は広く知られ、かの地の陶山神社には「陶祖李参平」という碑が建立されている。

 当時、秀吉の朝鮮侵略には心情的に反発する者も多く、茶の湯の宗匠・千利休もその一人といわれている。

 楽茶碗の初代・長次郎は朝鮮の瓦職人ともいわれ、茶碗の最高峰といわれる井戸茶碗ももとは朝鮮の雑器であった。

 また、侘びの茶室も朝鮮の民家との類似性が指摘されており、利休が朝鮮に親近感を抱いていたことは間違いない。そして、これが秀吉との対立を生む一つの要因ともなったが、皮肉にも自身が大名の間に広めた茶の湯がこのような副産物を生むことになるとは、利休も思いもしなかったに違いない。

 その他、壬辰倭乱の副産物は多いが、科学技術に関する事項として日本朱子学と和算の成立がある。

「算学啓蒙」と天元術

 やはり連行され、紀州藩に住んでいた朝鮮の儒者・姜が藤原惺窩を指導し、それを林羅山に伝えた。この林羅山こそ、徳川家康以降4代の将軍に仕え朱子学を幕府の官学とした人物なのである。

 また、朝鮮から日本に持ち込まれた大量の古書籍をもとに「駿河文庫」が開設されたが、その責任者となったのも羅山であった。家康の死後は四等分されたが、そのなかの一つ江戸の富士亭文庫本は内閣文庫と宮内庁書陵部に受け継がれた。

 和算に関しては、関孝和が「算学啓蒙」を研究し天元術を改良して日本独自の記号代数学を発明したが、当時、「算学啓蒙」は中国では滅び朝鮮本のみ存在していた。それが、日本に招来したのである。

 ここで、留意しなければならないのは、単に中国の書籍が朝鮮を中継地として日本に伝えられたということではないということである。すでに、中国では途絶えていた天元術が朝鮮で研究が深まり、その朝鮮で刊行された「算学啓蒙」が日本にもたらされたのである。このような事から川原秀樹東大教授は和算のルーツは中国で、起源は朝鮮であると表現している。

 従来、壬辰倭乱時に連行された人数は10余万人といわれてきたが、薩摩藩だけでも3万700人にもなり、また、この戦乱によって朝鮮の人口が約235万人も減少しており、近年では10万をはるかに超えるのではないかといわれている。

 壬辰倭乱によって朝鮮は、それまで蓄積していた科学技術が壊滅的な打撃を受け、逆に日本は学術的に大きな発展の契機を得た。

 副産物と呼ぶには、あまりにも大きい歴史の痕跡である。(任正爀・朝鮮大学校理工学部教授)

[朝鮮新報 2008.10.24]