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〈遺骨は叫ぶR〉 岡山・三井造船玉野造船所

暴行、拘束、病気、ケガで多くの死者

現在の三井造船玉野造船所

 岡山県南部の宇野港(現玉野市)は、明治中期までは塩田地帯だったが、築港が始まり、1910年に宇野線が開通すると同時に高松との間に宇高連絡船が通ると、交通上の要点となった。さらに西部、三井造船玉野造船所が造られ、太平洋戦争に突入するとともに繁多を極めていった。そして三井造船玉野造船所は、岡山県内最大の朝鮮人連行者となるのだが、「玉野市の三井造船には朝鮮人労働者、約1500人」(「岡山県史」第12巻近代V)が連行されたというが、その倍も来ている。

 玉野造船所への朝鮮人連行者の第1次、1500人は、1944年9月27日に、第2次、2000人は、10月28日に、三井造船所グラウンドで、それぞれ入所式が行われた。「生産増強に頼もしい援軍が来たものと期待する」と、会社側では迎え、朝鮮人代表は「大和一致奮励努力し、以て応徴戦士の本文を全うせん」と応えている。会社側で書いた「宣誓文」を読まされたのだ。

 玉野造船所に連行された3500人の「7割が地理的に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に属している。咸鏡北道・咸鏡南道・江原道の出身者は、当時『田舎』であり、普通学校(小学校)もまともに出たかどうかの出身者も多くいたと思われ、日本語を話し、理解する者は10数パーセント程度しかいなかったと推定」(「総動員の時代」)されるという。

 朝鮮人たちの宿舎は、玉野市築港に岡山県の労務挺身隊が3カ月の突貫工事で建てた協和寮であった。木造2階建ての倉庫のような建物で、敷地の周りは竹垣が組まれていた。寮の入口に警備室があり、朝鮮人が歩哨に立たされた。

協和寮跡に宇野中学校が建っている

 朝鮮人たちの日常を定めた「日程表」が残されている。5時起床、5時5分点呼、5時15分作業、5時30分朝食、5時50分集合、6時出発、7時30分勤務、18時勤務終了、18時15分帰退、19時20分点呼、19時30分夕食、19時40分入浴、21時点呼、22時消灯。1年間を通しての日程なのか不明だが、冬期間もこの日程だったら厳しい。また、夕食の時間が10分というのも短く、いったい何を食べていたのだろうか。食事は「杉の木箱に薩摩芋が中心を占め、米は数えるほどで、海草の塩汁にたくわん数切れだけだった。これは、1年中同じだった」(金龍玉)というから、食べ終わるのに10分もいらなかったのだろう。とても重労働ができるような食事ではない。毎日のように空腹に苦しんでいたことだろう。

 当時、玉野造船所では、戦時標準船や潜水艦などを造っていたので、朝鮮人たちはリベット打ち、溶接、運転などの仕事をした。しかし、1944年の暮れになって米空軍の本土空襲がはじまり、各地の造船所が襲われはじめた。

 玉野造船所も危なくなったので、機械を疎開させるために地下軍事工場の掘削作業が始まり、若い人たちがその作業に回された。とくに、大きな地下軍事工場は2カ所に掘削されたが、落盤事故が起きている。死者や怪我人が出ているというが、詳しいことはわかっていない。

 また、朝鮮人に対する暴行や拘束もたびたび起きている。朝鮮人の中で「病気や怪我で働きに出られず、宿舎に残っている人たちの食事はさらにひどいものでした。屑米にとうもろこしが混ざったボロボロご飯少量に、海水を煮立てただけの汁に、乾燥野菜の葉っぱの小舟を浮かせたものでした。痩せた青白い顔。背を曲げ、前屈みで歩いていました。この人たちは調理場の裏側に置いてある、上官や食堂従業員の食べ残しを入れた四斗樽を狙っていました。腰板に沿って這うように近づいて、手づかみに大急ぎで一口二口。それを待ち受けて飛び出し、袖首を掴み、頭といわず、顔といわず自分の履いている高下駄を持っての乱打。流れる血。何の弁解も反抗もせず、すみません、すみませんと詫びる半島青年の姿」(「戦争中に生きた女教師たち」)が記録されている。

 正月に一人当たり一合の酒が特配になったのをまとめて受け取った朝鮮人副官が、一人当たり6勺ぐらいよりないと抗議して一合にさせた。のちにその副官は、宇野港の水上警察署に連行され、「おまえは朝鮮の独立を考えているのか」と特高から40日に渡って暴行を受けている。また、作業中に頭上から鉄板が落ちて、頭が粉々になり死亡した人もいる。作業中に車から落ちて交通事故で亡くなった人や、船から落ちて死亡した人もいるが、名前はわかっていない。

 日本の敗戦までに玉野造船所で死亡した朝鮮人は16人で、江原道出身9人、咸鏡南道出身7人となっている。この人たちは、玉野市の西火葬場で13人、大谷火葬場で3人が火葬された。遺骨は、帰国した中隊名になっているが、遺族の手に渡ったかどうかはわかっていない。敗戦後60年がすぎても、日本の政府や企業は、犠牲者の遺骨調査をしようともしていない。(作家、野添憲治)

[朝鮮新報 2008.10.27]