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〈朝鮮史から民族を考える 27〉 歴史教科書問題

略奪戦争と冷戦政策の連続性

国家にとっての歴史教育の役割

市販本「新しい歴史教科書」(扶桑社)

 なぜ、歴史教科書の記述内容が国家間での激しい政治的対立の焦点になるのか? その根本的な理由はといえばほかでもない、私たちがそのなかで生きている国家の存続のために、歴史教科書というものが極めて重要な役割を果たしているからである。近代国家=国民国家(ネイション・ステイト)は、世界史的には18世紀から19世紀にかけて、西ヨーロッパ地域から世界に広がっていくが、この動きによって、それまでのさまざまな共同体が、新たな国民国家として分割・統合されていった。国民国家は、同じ「国民」であるという意識を伝達するために「国語」「国史」という概念をつくりだし、教育の場や社会に広げていくのである。歴史教科書の運命は国家や社会の民主化の進展につれ、大きく国定制、検定制、自由(現場)採択制へと変遷していく。現在、国定制は一部の国にとどまっており、ほとんどの国は検定制を使っている。中国や南朝鮮も検定制に大きく舵を向けようとしており、一方フィンランドなどの北欧諸国は自由採択制をとっている。

 日本の現教科書検定制度については、教育者・研究者や市民から次のような意見が出ている。@不透明なかたちで任用されている教科書調査官の制度を廃止することA検定審議会を文科省から独立した機関にすることB教科書検定過程の情報を公開することC検定意見の強制力を緩和し、執筆者の意見が尊重されるようにすること。要するに、教科書検定制度を段階的に廃止し、自由採択制度を導入することが目指されている。

日本の歴史教科書問題

 これまで日本でたびたび起きた歴史教科書問題の由来も、元を正せば東アジア地域の枠組みの中での日本社会の政治のあり方と関連しているということができる。

 敗戦後の日本政治は米国の冷戦政策によって規定されたといえるが、冷戦政策を支えるさまざまな要素は、遠く日本の植民地統治と侵略戦争の中にその淵源をもっている。例えば、治安維持法や支配勢力・親日派の第2次大戦後の政治における継承性(連続性)などがそうだ。また、済州島4.3事件、台湾2.28事件、沖縄基地問題など国家テロリズムによって引き起こされた問題は、それぞれ個別の枠内だけで理解しえるものではなく、東アジア冷戦下の同時代的な連関のなかで引き起こされたものとして見るべきである。

 教科書問題もこのような構造のなかで起きるべくして起きたのだ。戦後補償を否定した冷戦体制の下で、従属関係にある日・「韓」・台の当局間では、過去の問題、教科書問題が取りざたされるたびに、日本の「経済援助」を取り付ける方式によって政治決着を図ってきた。日・「韓」・台の当局は一種の「共犯」関係にあったのだ。

 また、戦後、日本の平和・護憲運動を見ても当の元「従軍慰安婦」たちが声をあげるまでは、戦後補償の問題すら取り上げられることはなく、教科書問題が浮上してもアジア諸国が声をあげるまでは、先に日本のなかから反対運動が大きく起こることはなかった。このことは冷戦・分断体制下の政治や社会のなかで植民地主義がいかに根強く温存されてきたかを如実に示している。被害者が問題提起しないかぎり、世の中は頬かぶりなのだ。

 冷戦終結後、アジア各地で日本の過去問題の責任を追及する動きが起こるが、これに対して日本では90年代後半から右翼保守派の逆攻勢が始まり、96年に「新しい歴史教科書をつくる会」を結成し、歴史教科書の侵略・加害記述への攻撃をエスカレートさせてきた。このようななかで日・「韓」両当局は「現実的な対案」なるものを打ち出す。日本の連立内閣は、いわゆる「国民基金」をもちだし、95年村山首相談話を発表した。98年の「日韓共同宣言」も最初から同床異夢で、30億ドルと引き替えに日本の過去問題を不問に付し、「日韓新時代」を演出した。口では謝罪するが国家補償はしないというものだ。こういう「現実的な対案」はマスメディアや知識人によって、「柔らかなナショナリズム」の言説としてことさらにもてはやされる。

 こうして日本社会で原則的な批判意識が弱まるなかで、右翼化は急速に進み、国旗・国歌法、住民基本台帳法、テロ対策特別措置法、「有事関連3法」「北朝鮮制裁措置」などが成立し、01年と05年には「つくる会」の教科書が検定を合格したばかりか、既存の教科書からは「従軍慰安婦」、南京虐殺事件など加害の事実に関する記述が大きく後退した。

当局が主張する「歴史共同研究委員会」

 現在、日・「韓」・中の当局は「日韓歴史共同研究委員会」(第2期07年)、「日中歴史共同研究委員会」(06年)を発足させ歴史共同研究を進めていくとしているが、これについてはいささか疑問を持たざるをえない。日本側のメンバーには、政府の思惑が絡んで重村智計などの右翼保守的な人物が多く入り、「主張する外交」による人選であることがわかる。「韓」・中当局がこれに応じたのには、日本との「経済協力」を最優先し過去問題の摩擦をできるだけ避けようとする思惑があったのではないか。そのため第1期(02〜05年)の「日韓歴史共同研究委員会」は報告書を出したものの、互いの主張を繰り返しただけに終わっている。このような共同研究について、市民運動のなかから「表面的な友好を強調する彌縫策だ」という批判の声があがっているのは当然といえば当然のことである。

 歴史問題と政治を切り離すことは不可能である。日本の教科書問題が単に記載内容それ自体にとどまるものではなく、全体的な政治的流れのなかで起こっているからこそ、現在日本が侵略した中国、併合した南北朝鮮から激しい反発が起きているのである。教科書問題の根本的解決は、戦後補償を否定した東アジアの冷戦体制を止揚し、東アジア平和秩序を構築する課題と密接に関連しているのである。(康成銀、朝鮮大学校教授)

[朝鮮新報 2008.11.7]