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〈人物で見る朝鮮科学史−70〉 実学の時代@

西洋知識の導入図った金堉など

柳馨遠の「磻渓随録

 朝鮮王朝時代の科学技術を鳥瞰した時、二つの大きな山がある。一つは前期の世宗時代の科学技術であり、もう一つは後期の「実学」である。

壬辰・丁酉倭乱とその後の清国の侵攻などにより、国土は荒廃し人々の生活も貧困化するが、にもかかわらず両班貴族たちは権力闘争に明け暮れていた。そのような状況下で朱子学の空理空談を廃して国を富強にし、人々の生活向上に役立つ学問を追求する学者たちが登場する。それが実学へと結実するのである。実学とは「実心の学」であり、目的において「実用之学」を目指し、方法論として「実事是求」(事実に即して真理を求める)を追究する学問である。実学というと一般的には単に生活に役立つ学問と思われがちであるが、17世紀以降の朝鮮や中国、日本における実学は特別な意味をもつ。というのも、当時、西洋では力学を基本とする近代科学が発展していたのだが、東洋ではそのような展開がなく、それと対峙するかのように実学が盛行していたからである。

 朝鮮における実学の展開は、おおよそ形成期(17世紀)・成熟期(18世紀)・衰退期(19世紀)、そして開化思想への移行期(開国前後)の四段階に分けることができる。まず、形成期には先駆者といわれる金堉、李睟光らが西洋知識の積極的な導入を図り、創始者といわれる柳馨遠、洪万選、韓百謙らが土地問題、農業問題、歴史地理問題を取り上げた。

洪命憙校正「湛軒書」

 成熟期になると柳馨遠の実学を受け継いだ李瀷をはじめとする安鼎福、申景濬、李重煥、柳ニ、鄭尚驥らが経世致用派を、朴趾源、洪大容、朴斉家、李徳懋、柳徳恭らが利用厚生派を形成した。前者はおもに農業問題を、後者は都市の商工業問題を積極的に取り上げた。利用厚生派は北学派とも呼ばれたが、それは両班貴族たちが野蛮視する清国であっても優れた科学技術は積極的に受け入れるべきであると主張したからである。続いて、丁若繧ェ経世致用派、利用厚生派の両方を総合した実学を完成させる。

 その後、「西学」に対する弾圧によって実学も衰退するが、それでも19世紀前半まで金正喜、金正浩、崔漢綺、徐有、李圭景らによって実学の伝統は受け継がれた。そして、1850年代になって実学を継承した朴珪寿、呉慶錫、劉大致らによって開化思想が芽生え、70〜80年代になって金玉均らによって一つの思想潮流となった。

 さて、このような朝鮮実学の研究は植民地時代に遡る。日本の植民地統治下で民族の自我確立のための「朝鮮学」を標榜した文一平、白南雲、安在鴻、鄭寅普らが朝鮮後期の学者たちの業積に注目、彼らの学問を「実学」として高く評価し、様々な学術活動を行った。安在鴻、鄭寅普校正による丁若縺u與猶堂全書」、洪命憙校正による洪大容「湛軒書」が刊行されたのもこの頃のことである。彼らの学問自体も、また実学だったのである。(任正爀・朝鮮大学校理工学部教授)

[朝鮮新報 2008.11.7]