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開城・霊通寺と妙香山・普賢寺を訪ねて

朝鮮天台宗の創始者・義天と救国の英雄・西山大師

秋たけなわの霊通寺(写真上)とその景観をキャンパスに描く画家

 さわやかな秋晴れの10月の20日と22日、朝鮮の二つの古刹を訪ねた。一つは06年に復元された開城・龍興洞にある霊通寺、他方は天下の名勝・妙香山にある普賢寺。

 新羅末期と高麗時代初期に創建され度重なる戦火をくぐり抜けてきた二つの寺には、いくつもの物語が眠っている。その歴史をひもときながら寺を見て回った。

 千年の栄華を誇る高麗の首都・開城はいたるところで時代の息吹を感じさせる歴史の都。歴史、自然、そして今も民族を二つに引き裂く軍事境界線を懐に抱く現代政治の最前線に位置する。

 霊通寺は、開城の都をぐるりと囲む羅城東側の弾正門の跡から8キロ入った奥深い山中にある。車で松都湖の東岸を行くと、美しい紅葉が水面に影を落とし、絵のような景観が続く。途中、焚き木を背負った村人に行き交う。

 11年前、朝鮮社会科学院考古学研究所の招きで寺の共同発掘事業のためこの道を通った斎藤忠・大正大学名誉教授は、「道の途中でトラクターが来たので、幸いとばかり乗せてもらったが、縦横に振動する激しい揺れに、せり落とされるのではないかと必死の思いであった。いつ落ちるのかと心配で、あたりの景色を見る暇がなかった」と述懐していたが、いま、道は整備され、大型バスも行き交うようになっていた。

妙香山の幾重にも重なる稜線が山水画の一幅の絵のように美しかった
開城の高麗博物館には樹齢900年のけやきと500余念のいちょうの大木2本が天然記念物として保護されている
普通寺の大雄殿は紅葉と真っ赤なサルビアが見ごろを迎えていた

 いくつもの山と谷を越えて、目の前に飛び込んできたのは、歴史上、高麗第一の名僧として名を馳せた大覚国師・義天(1055〜1101)ゆかりの五冠山の麓に位置する霊通寺。

 3万ヘクタールにも及ぶ広大な寺跡に、06年に復元された伽藍の堂屋の甍が、キラキラとまぶしい陽光を照り返す。薄青を基調とした丹青の装飾が、真っ赤な紅葉と好対照をなしていた。

 五冠山の奇勝絶壁に見入る。はるかな歴史をたどれば、高麗11代文宗王の第4子として生まれた義天は、11歳で霊通寺に入り、万巻の書を読み、30歳のとき、密かに宋に渡り天台宗を極め、帰国して朝鮮天台宗を創始。

 さらに、義天は東アジア世界のあらゆる仏書を総整理するため、25年かけて宋・遼・日本などに散逸していた仏教関係書籍を集めて、「新編諸宗教総録」(3巻)を編さんした。同書には1010種4769巻の書目が収められている。今も内外からその遺徳を偲ぶ人は絶えないのである。

 妙香山山腹にある普賢寺も、紅葉のなかで眺めると一段と趣が深い。ここには高麗時代に建立された本殿の大雄殿はじめ24の建物が残され、往時をしのばせている。戦乱や火災などの受難でこの千年の間に観音殿以外の建物は焼失したが、そのつど再建、修復されてきた。

 普賢寺で最も名高いのは休静・西山大師にまつわる物語。任辰倭乱の国難にあって、73歳の高齢にも関わらず、義僧兵1700人を指揮して侵略軍と戦い、敵を撃退した。師が入山していた「金剛窟」から全国各地の寺院にあてた祖国防衛の檄文はあまりにも名高い。

 「老いたる者、病める者は、各自の寺で国土防衛と倭賊の撃滅を祈願せよ。戦える者一人残らず武装を固め、義兵となって総決起すべし!」

 これに呼応した愛国的な義僧軍は各地で侵略軍を打ち破り、戦況の逆転に大きく貢献したのである。

普賢寺の解脱門と天王門(写真左)、天王門には龍の装飾が施されている

 祖国防衛戦を偉大な勝利に導き、李舜臣将軍と共に朝鮮史に民族の英雄として記憶されている西山大師。厳粛な気持ちで辺りの景観に見入る。

 普賢寺の東方には西山大師とその直弟子である惟政・泗溟大師、処英らを祭るため1794年に建立された酬忠祠が現存する。泗溟大師は1604年、伏見城で徳川家康と会見。豊臣政権による朝鮮侵略の謝罪を受け入れ、その後約300年にわたる朝・日友好の時代を切り開いた人物。

 いまや、多くの在日同胞、学生たちが参観に訪れる名所の一つ、妙香山。旅の妙味は、書物で得た知識をさらに現場で体感できることにあろう。現場で想像を膨らませながら、辺りを眺めるときっと今まで見えなかった景色が眼前に広がることだろう。(文と写真=朴日粉記者)

[朝鮮新報 2008.11.12]