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エクアドルのコレア大統領のルーツは?

秀吉の朝鮮侵略で連行された子孫か

 イタリア人フランチェスコ・カルレッチが長崎で朝鮮人の奴隷少年5人を買い取って、4人をインドのゴアで手ばなし、一人だけを連れてイタリアに帰ったことは、山口正之氏の「朝鮮西教史」に紹介されていた(雄山閣、1967年10月刊)。韓国日報の金聖佑記者は、その奴隷少年アントニオ・コレアの子孫をイタリア本土で突きとめたことで、大きな話題となった。韓国日報(79年10月7日付)によると、見出しは「370年前、壬乱(壬辰倭乱=秀吉の朝鮮侵略)時、日本に連行された少年、イタリア探検家に随い、ヨーロッパに」とあり、また、「イタリア『コレア(COREA)』氏たちの村、『根=ルーツ』は韓国人だった」と大々的に報道した。

初報道は韓国日報

 「朝鮮西教史」によると、カルレッチはフローレンス(フィレンツェ)の生まれで、父とともに、1594年から海路での世界一周を志し、1606年までの13年間をかけて目的を達したという。彼と父は、大西洋へ出て西インド諸島に渡り、2年の後、1596年メキシコのアカプルコを出て、太平洋を通り、フィリピンのマニラに着き、1597年5月、日本船に乗って長崎に上陸したという。

 秀吉の朝鮮侵略は1592年から98年の7年間。彼の長崎滞在は10カ月ほどだが、要するに彼は朝鮮侵略戦中の日本で生活していたということである。長崎で前記の朝鮮人少年奴隷5人を買い洗礼を受けさせた。

 1598年3月、マカオを経由して、翌年12月、インドのゴアに到着。「その頃ゴアは奴隷売買の市場として栄えたが、父はそのいざこざに巻きこまれて不慮の死をとげた。そこで行をともにしていた五名の朝鮮キリシタン少年のうち四名はゴアに居残った。朝鮮奴隷はマカオ・ゴアなどのポルトガル植民市で取引された」(「朝鮮西教史」)。

 韓国の歴史書には、4人の少年はゴアで「解放」された、としているが、違うと思う。カルレッチは少年一人を連れて、いろいろとあって、1606年にやっとイタリアのフローレンスに到着する。少年の名はアントニオ・コレア(ANTONIO COREA)と呼ばれた。「カルレッチは、その後1701年に出版した東西印度航海記(フローレンス刊、羊皮紙製本一冊)に朝鮮少年の動静をしるして、−アントニオは、いまローマに滞在している−と述べている」とある。

 ※カルレッチは、1572年か73年の生まれという。山口氏は「東西印度航海記」をカルレッチ自身が出版したように書いているが、出版年が1701年になり、カルレッチは130歳位である。これはないと思う。恐らくカルレッチの書いていた原稿を、その子孫が1701年になって出版したものと思われる。また、この本は、1941年に復刊されたという。

イタリアでオリーブ農場

 金聖佑記者は、このアントニオ・コレアの子孫を探しあてたのである。これは、実に特種中の特種なことだと言える。

 イタリアの東南に位置するアルビという山村の人口1348人中、コレア姓が185人という多数である。また、近くのカタンチャロという都市には60人、この他南部の10余りの地区に数人ずつ居住しており、ローマにも20余人が居住しているとのことである。

 コレア姓の本家筋のカスクアルレ氏は、オリーブ農場を経営していて、当時38歳。アントニオ・コレアが先祖だという記録はないが、代々言い伝えられているとのことである。アントニオは、船便でアルビ近くの湾に着き、農地を探していたが、この村でアヌンチアタラという女性と結婚し、何人かの子をなしたが長男の名はドミニコだった。アントニオはこの地に死んで、墓もある。つまり、アントニオ・コレア以前のことは全く判らず、自分たちの先祖が朝鮮人だったことも知らなかったのである。故に、アルビのコレア氏の曽祖父代までに、黒い髪の毛、横長の眼や皮膚の色が非西洋的な人もいたが、なぜだか判らなかったという。

 そしてもう一点、大事なことが書かれていた。「コレア氏たちは、また、1904年に約20名が米国へ移民で行き、1950年より、再び40余名が米国、カナダ、南米などに仕事場を求めて(この地を)離れ、コレア氏の子孫たちは、米洲大陸に多く散在することになった」とあるのである。

「奴隷商人たちの暗躍」

 昨年11月下旬、京都で催された「鼻塚(耳塚)から朝鮮通信使へ」というシンポジウムで、私は耳塚問題と秀吉侵略時の朝鮮人奴隷連行問題について話した折、06年10月、南米のエクアドルの大統領選で当選したラファエル・コレア大統領に触れ、近代以降の移民ならば、金とか李、または朴とか明確な姓名を名乗るはずなのに、コレアを名乗るのは、近代以前であろうと言い、1597年5月に長崎に上陸したイタリア人フランチェスコ・カルレッチが、朝鮮奴隷少年5人を買取り、インドのゴアで4人を手放し、一人だけを連れて、来た時と同じようにマニラから南米経由でイタリアに帰り、奴隷少年を解放し、名をアントニオ・コレアとつけたことを話して、今度大統領になったコレア氏は、経緯は不明だが秀吉軍の奴隷として連行された人の子孫ではないか、との推測を述べたことがある。

 私はこの時、韓国日報・金聖佑記者の記事のことは知らなかった。シンポジウムが終った後、近くのレストランで懇親会が持たれた。私が椅子に腰をおろすと、卓をはさんで前にすわっていた60代の人が、名刺を出した。尹達世とある。私は思わず声をあげた。「ああ、会いたかったなあ」。尹氏は民団新聞に「四百年の長い道」という、被連行朝鮮人のその後の足跡を迫ってユニークな記事にまとめて連載していて、私は時折、この新聞を見ると、必ずこの紀行文には眼を通していたのである。尹氏はこの時、一冊の本を出し、「進呈します」と言う。見ると本になった「四百年の長い道」であった。私はありがたく頂戴した。

 この本の「奴隷商人の暗躍」という2ページで、金聖佑記者の記事が紹介されていた。だが、この本では、コレア氏たちの米国、カナダ、南米への移民についての紹介はなかった。私は朝鮮大学校図書館にある韓国日報の原文を読んで、初めて前記、移民の件を知ったのである。

 私は京都でのシンポでエクアドルのコレア大統領の朝鮮人奴隷子孫説を推測として述べたが、イタリア・アルビ在住コレア氏の、米、加、南米へのコレア氏たちの移民証言で、私の朝鮮奴隷子孫説が、ぐっと現実味を増したことになったと思う。

 後は、確認の作業だけである。コレア大統領は今も自身のコレア姓について、知らないままでいるのかもしれない。(歴史研究者・琴秉洞氏は、この原稿を書き上げた後、さる9月24日に死去されました)

[朝鮮新報 2008.11.14]