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〈遺骨は叫ぶS〉 北海道・計根別飛行場

「滑走路の下に、朝鮮人の死体埋めた」

計根別第1飛行場跡の格納庫跡

 根室海峡を隔てて国後島が見える、北海道の北の果てとも言える野付郡別海町の牧場の中に、コンクリートで造られた掩体壕(飛行機を隠す所)がある。その上に上がると、緑の牧草地が広がり、農家が点在している。アジア太平洋戦争時、この地に日本最大の計根別飛行場が造られた場所には見えない。

 計根別飛行場は、陸軍軽爆飛行場として1940年に、北の守りを堅固にする狙いで計画された。翌年には、旭川の広野組が元請けとなり、飛行場が造られる農地から多くの農家が移住させられた。工事が本格的に始まったのは1942年1月からで、建設工事は「ケノヒ工事」という暗号で呼ばれ、開通したばかりの標津線を、連日のように建設資材と、全国各地から動員された勤労報国隊、女子挺身隊、勤労動員学徒とともに、「朝鮮人労働者も多く見られ、一時は3000人を超える朝鮮人が従事した」(「中標津町史」)という。5月29日にアッツ島日本軍守備隊全滅と、戦局が悪化する中で、工事は強行された。

 計根別飛行場の建設に連行された朝鮮人は、直接連れてこられた人や、北海道の炭鉱やダム工事で働いている所から連れてこられた人など、さまざまだった。朝鮮人たちは、当幌川の川沿いに分散して建てられた飯場に収容されたが、「飯場の窓には、三寸角の木の桟がしてあり、中央が通路で両側に寝るようになっていた。」(柳四守)、「計根別の飯場は、牢屋みたいだった。壁には、檜のものすごく厚い板が使われ、コンクリートと同じだった。内からも外からも鍵をかけられ、便所も潜って逃げられないようになっていた」(安寿烈)という。飯場に入った時にまず見せられたのが拷問道具で、「拷問道具はいつも飯場においてあり、まず4尺くらいのまっさらなロープ、それで後ろ手を合わせて結び、離そうとすると骨が折れてしまうというもの。たこあげといって人間を縛って、吊し上げるもの。足や指先、爪を刺す穴あけキリなどがあった。」(柳四守)という。拷問にかけられるのは、幹部の命令を聞かなかった時や、逃げて捕まえられた時だが、10人のうち、8、9人は死んだ。生き残っても一生不具になった。

計根別第1飛行場跡の掩体壕

 計根別飛行場は、第1、2、3、4の4つの飛行場が造られ、それぞれ誘導路で結ばれるようになっていた。飛行場を囲むように、兵舎、倉庫、兵器廠(飛行機を修理する工場)、陸軍病院、格納庫などが建設され、1944年2月末に開隊式をあげた時は、2500人の兵士がいた。これだけの施設を造るのに、延べ約30万人と1800万円を使っている。

 朝鮮人たちの主な仕事は、滑走路、誘導路工事の他、格納庫や掩体壕の基礎から側壁などの土木工事だった。滑走路工事は、大地を平らにしたあと、100メートル幅で1メートルの深さの穴を、1200メートルに渡って掘った。滑走路の底には、熊笹や木を厚く敷き、飛行機が着陸する時のショックを和らげた。その上に砕石などを敷き、さらにセメントを流し込んだが、掘った土をモッコで担ぎ上げ、トロッコに積む仕事は大変だった。しかも「朝はまだ薄暗いうちに飯場を出て作業を始める。それで夜、スコップの先が見えなくなるまで働かされた。1日15、16時間の労働で、その間、休みの時間は30分ぐらいしかなかった。休日などは1日もなく、どしゃ降りの雨の日でも働かされた。自由に出歩くようなことはまったくできなくて、自分の知っているのは飛行場の建設現場と飯場の行き帰りの道だけです。仕事中とか作業の行き帰りには、10人に2人の割合で日本人棒頭」(「中標津町史」)がついて監視した。

 長時間重労働をするのに食事がまたひどいものだった。油を絞ったあとの豆粕が主で、なかは腐って黒くなっていた。豆粕を煮たのに南京豆がパラパラと入っていた。おかずは、鹿児島から送られてくるサツマイモの蔓で、腐って白く粉がふいているのを切り、塩水の汁に入れたものだった。たまに薄く切った塩ホッケやマスが出たが、量も少ないのでいつも空腹だった。そのため、過労と栄養失調で40歳以上の人が次々と死んでいった。

 また、シラミが大量に発生したので、発疹チフスが広まり、命令を受けて防疫に行った日本人衛生兵は、「計根別で毎日5、6人死んでいる」(「滑走路と少年土工史」)と証言している。計根別飛行場で2年間現場監督をした日本人は、飯場のあった当幌川に沿った台地に「少なくとも100体は埋められている」「滑走路の下に、スプリング代わりに死体が埋められている」(同)と語っている。しかも、地獄の苦しさに逃亡して捕まると、裸にした体に俵を針金で縛って歩かされた。50メートルも行くと、体が血だらけになって倒れた。また、鼻に紐を通して連れて歩くという行為を繰り返している。どれだけの犠牲者が出たかもわかっていない。

 日本の敗戦後、第1、2、3飛行場は、旧農家に返還されたり、緊急開拓の入植者に払い下げられ、第4飛行場は、現在も自衛隊が使っている。1992年5月に、2回に渡り現地の古老の指導で、延べ150人が参加して、遺骨の掘り起こしをしたが、発見できなかった。牧草に埋もれた飛行場跡にいまも埋まったままだ。(作家、野添憲治)

[朝鮮新報 2008.11.17]