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〈人物で見る朝鮮科学史−71〉 実学の時代A

西洋近代科学技術の伝来

マテオ・リッチ様式の世界地図

 実学形成の重要な要因の一つは西洋近代科学技術の伝来である。朝鮮に西洋に関する情報が本格的に伝え始められたのは朝鮮後期になってからのことで、17世紀初、実学の先駆者といわれる李 光は中国で出版された西洋の自然科学書を研究し、その著書「芝峰類説」で西洋文物について言及している。なかでも、1603年に李光庭と権ニが北京からマテオ・リッチの「神輿万国全図」を持ち込んだという記述は、地球説の最初の伝来記録として科学史的に価値あるものである。というのも、地球説の導入は伝統的宇宙観の変革を促すものであったからである。

 本格的な西洋知識の伝来としては、1641年に鄭斗源が中国より火砲、千里鏡(望遠鏡)、自鳴鐘(時計)などの機械とともに天文学書を持ち込んだことがよく知られている。ちなみに子どもたちが目覚まし時計のことを「チャミョンジョン」とよぶが、それはこの時以来の「自鳴鐘」のハングル読みが今も続いているのである。また、1644年には仁祖の世子・昭顕が北京でアダム・シャールと会見し、天文書、天球儀などを贈られている。さらに、同じ年、観象監の責任者であった金 は西洋の天文暦法である「時憲暦」の導入を主張したが、それは国家レベルで西洋科学知識の価値を認める象徴的な出来事であった。

シーボルト「日本」所収の朝鮮人漁民の絵

 朝鮮への西洋科学知識の伝来はほとんど中国を通じた間接的なものであるが、唯一の例外といえるのが1627年に朝鮮に漂着したヤン・ヤンセ・ウェルテフレーである。彼は、その後、朴燕という名で朝鮮に永住し訓錬都監の部隊長を務め西洋の軍事技術を朝鮮に伝えたといわれている。その詳細は知られていないが、彼の存在が大きくクローズアップされたのは1653年東インド会社の交易船デ・スペルウェール号のオランダ人乗組員34名が済州島に漂着し、その通訳を務めた時である。その時までオランダ語を話す朝鮮人はいなかったのである。その13年後全羅南道に住んでいたハメルを含む8人が朝鮮を抜け出し、日本を経てオランダに帰国した。そして、朝鮮に滞在した時の出来事を記したのが「ハメル報告書」(邦訳「朝鮮幽囚記」、平凡社)である。この報告書には当時の朝鮮の状況が詳しく書かれており、オランダを含む西欧諸国に朝鮮の情報を伝えるうえで決定的な役割を果たした。

 この後、朝鮮の詳細な情報が西洋に伝わるのは19世紀のことで、シーボルトの報告集「日本」(邦訳が雄松堂書店から出版されており、掲載図はその引用である)のなかの第12編「朝鮮」によってである。シーボルトが日本蘭学史に大きな足跡を残したたことはよく知られているが、残念ながら朝鮮ではそのような人物が登場することはなかった。いち早く近代化を果たした日本との違いの一つがここにある。(任正爀・朝鮮大学校理工学部教授)

[朝鮮新報 2008.11.28]