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〈人物で見る朝鮮科学史−74〉 実学の時代D

正確な朝鮮地図の製作、金正浩

「大東興地図」

 3年に渡る連載も今回が最後となった。最後に登場するのは「大東輿地図」の製作者金正浩である。「大東輿地図」は近代以前のもっとも正確な朝鮮地図として知られ、全国を南北に22に分けて東西を横に折り込むようになっている。すべてをつなぐと20畳ほどの大きさになり、全国が見渡せる。江戸時代のもっとも正確な日本地図として知られる「大日本沿海輿地全図」を作成した伊能忠敬は16年の歳月、ざっと3万5千キロ、歩数にして約4千万歩を歩いたという。伊能忠敬には「幕府御用」という看板があり供の者も多かったが、金正浩の場合は、ほとんど一人である。想像を絶する苦労があったに違いない。どこにそんなお金があったのだろうか? その間、彼の妻や子はどのように暮らしたのだろうか? 地図を作ってどうするつもりだったのだろうか? このような素朴な疑問もわくが、実は金正浩の生涯は謎につつまれ、それに答えることは難しい。

 「大東輿地図」を完成させた金正浩は、それを国防に利用してほしいと願い、時の摂政・大院君に献上するのだが、逆に国家の機密を漏洩するものとして罪に問われ、地図と版木は押収、彼も牢獄でこの世を去る。一般に広く知られた獄死説であるが、これも確認されたわけではない。そこで金正浩の実像を解き明かすための研究が行われたが、現在まで明らかになったことは、金正浩は大院君時代の武官である申 に地図の製作を依頼されたこと、そして彼が収集した備辺司と奎章閣に所蔵されている地図と旧家に残された地図を利用できたこと、また1995年にソウルの中央博物館収蔵庫から「大東輿地図」木版11枚が発見され、「朝鮮語読本」の大院君によって版木が燃やされたという記述は誤りということである。

「大東興地図」の版木

 では、金正浩の伝説はまったくのフィクションなのか? いや、もし、そうであったならば、あれほどの偉業を残した人物についてほとんど知られていないことの説明がつかないのではないだろうか。金正浩は故国を愛するという意をこめて自身を「古山子」と号し、その地図の余白に目的を国防と人々の生活のためとに書いた。来るべき国際化の波を感じていたのであろう。それに対し権力闘争に明け暮れ、列強の侵入に対して有効な対策を立てることができなった偽政者には「大東輿地図」を使いこなせる能力はなく、むしろ、地図が敵の手に渡ることを恐れた。そして地図と版木は押収、金正浩も幽閉される。人々は罪人となった金正浩のことを口にするのもはばかるようになり、いくつか断片的なことのみが伝えられ風説と化した。これが筆者が思うところの金正浩の実像である。金正浩が地図を完成させた15年後、朝鮮は開国し、科学史も近代という新たな時代を迎えるが、それは彼が感じていた通り弱肉強食の国際的環境のなか苦難の道を歩むことになる。=おわり(任正爀・朝鮮大学校理工学部教授)

[朝鮮新報 2008.12.19]