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〈遺骨は叫ぶ-21-〉 長生炭坑

炭坑事故最大の死者 今も海底に放置、日本人に1万円の弔慰金 朝鮮人は5円

 長生炭鉱跡(山口県宇部市西岐波)に行ったのは晩秋だった。周防灘に面した長生海岸は暖かく、砂地にハマエンドウが紫の花を咲かせていた。沖に二つの筒が立っているのが見える。海底坑道の空気を出し入れしたピーヤで、その底に犠牲になった多くの坑夫たちの屍が埋まってるのだ。供えた花束を投げたが、ピーヤには届かなかった。

海面に立っている2本のピーヤの下に、死者たちが埋まったままだ

 当鉱区の一部は、早くから採掘していたが、1919年に新浦炭坑として創業した。その後は、順調に経営が続けられたが、1921年に坑口から海水が侵入して坑道を呑み込み、女性3人を含む33人の坑夫の命が奪われた。そのため新浦炭坑は自然消滅の形をとり、長生炭鉱に吸収された。

 長生炭鉱の海底炭層は、海岸線に沿った浅い地層にあるので、浅い地層で採掘をしていた。「坑道を下っていくと、すぐ頭の上が海なので恐ろしい気がしたそうだ。作業を止めて弁当を食べていると、頭上をポンポンと焼玉エンジンの漁船が通る音がするし、スクリューの水を掻く音さえはっきり聞こえるので、いつ天井が抜けるかと、そればかり恐ろしかった」(「朝鮮人強制連行調査の記録・中国編」)という。坑道が浅いので海水が侵入する事故が多発し、日本人坑夫から恐れられ、募集してもあまり寄りつかなかった。そのため、この事情を知らない朝鮮人坑夫が多く集められた。「集団渡航鮮人有付記録」(長生炭鉱鉱務課の記録)には、1940年に朝鮮から連行された453人をはじめ、1942年の水没事故までに1258人が連行された。社宅内では朝鮮語で通ると言われ、ほかからは「朝鮮炭鉱」と呼ばれるほど朝鮮人が多かった。

 だが、朝鮮人連行者が置かれた環境は厳しく、関釜連絡船を降りると、目つきの悪い男たちが見張っており、目玉を動かしても叩かれそうな雰囲気だった。飯場は、バラック建てで、炭鉱の外側全体が厚い木の板で囲まれていた。炭鉱への出入りは1カ所にあり、古参の朝鮮人が門番をしていた。近くの事務所には、憲兵が1〜2人常時駐在して目を光らせていた。朝鮮人は、職場の坑内と飯場の間の往復だけが許され、外に出て買い物をすることも、社宅に人を訪ねることもできなかった。飯場と外との連絡は、賄いの朝鮮人の女性や、朝鮮餅を買いに来る女性たちに頼んでいた。飯場は「海岸近くにイ、ロ、ハの3棟があり、強制連行朝鮮人は逃げられないように、木の格子がはめられた飯場に収容されていました。私がそばを通った時、彼らは、格子の隙間から手を伸ばし、何かを必死に訴えかけるのですが、私はその時は朝鮮語が理解できず、何もしてあげられませんでした」(金春粉)と言っている。

1987年に碑が建った。「安らかに眠れ」と刻まれているが、死後も放置された朝鮮人が安らかに眠れるだろうか

 食事は、米の飯が食べられたものの、おかずは大根や白菜を四等樽に塩漬けしたもので、1週間に1回鰯が2尾ついた。仕事で帰りが遅くなった時は、おかずがなくなり、樽の大根を手づかみして丸かじりした。ただ、重労働なのに量が少ないためいつも空腹だった。稼いだ金は、戦時国債を買わされたり、強制貯金をさせられたりして、手元に金がなく、売りにくる朝鮮餅を買えないこともあった。

 作業は、船から石炭、物資の積み出し、荷下ろし、ボタで海岸を埋め立てる坑外労働と、採炭、掘進などの坑内労働に分かれていた。坑内労働の時は、作業用のツルハシや、掻き板、えぶなどを持って坑道を下っていった。水没事故など、危険を伴う坑内作業は、ほとんど朝鮮人がやらされた。労働時間は、掘進夫が3交替で8時間、そのほかは、2交替で12時間となっていたが、あまり守られず、長くなることが多かった。

 苛酷な長時間労働と食糧不足に耐えられず、逃走する人がよく出たが、ほとんど捕らえられた。「夏のある日、2人の独身の飯場の者が逃げ出すところを捕まって、棒で叩かれているところを目撃した。彼らは殺されると叫んだ。また、別の日には、事務所に連れて行かれて、入口に鍵をかけて3人の労務の者が棒で叩いた。私は、18歳の頃だったので、怖くてその場を去り、逃げ帰った」(姜福徳)という証言がある。

 そして、1942年2月3日未明、アジア太平洋戦争下の炭鉱事故では最大の死者を出した大惨事が起きた。抗口から約1010メートルの地点で出水した。沖のピーヤ周辺一帯は浸水で、坑道の空気が真っ白に小山のように噴き上げ、大きな渦がグルグルと巻くのが3日位も続いたという。抗口では、事故の知らせで駆けつけた朝鮮人の女房たちが「哀号」と泣き叫ぶ声が3〜4日も続いた。特高や憲兵も出動したが収拾がつかず、炭鉱の経営者は、地元西光寺の住職に依頼して死者全員の位牌を一夜で作り、選炭場で葬儀を行った。この時の死者183人のうち、133〜135人が朝鮮人、あとが日本人だった。この水没事故の後、長生炭鉱は、犠牲者を海底から引き揚げないまま廃坑にし、2抗、3抗を開いて石炭採掘を続けた。

 事故の後、日本人遺族には、一人1万円以上と手厚く弔慰金を出したが、朝鮮人は、世帯持ちは弔慰金5円、生活費10円で社宅から追い出された。多くの独身者には、弔慰金どころか、戦時国債や強制貯金も支払われなかった。

 海に突き出た2本のピーヤから、時折、靄が立つことがあるという。死者たちの叫びではないかと、地元では言っている。(作家、野添憲治)

[朝鮮新報 2008.12.22]