九州朝高ラグビー部創部50周年記念フェスタ 「ボール持ったら突進!」から半世紀 |
脈々と受け継がれる魂 在日ラグビー発祥の地、九州朝高ラグビー部が創部50周年を迎えた。6日、記念フェスティバルが九州朝鮮中高級学校で催され、卒業生、ラグビー関係者ら350余人が参加した。この日のために結成された九州朝高OB(OVER40)、ALLL九州朝高(20〜30代)は、それぞれ玄惑クラブ、九州共立大との記念試合に35−5、31−7で、また九州朝高の現役選手らも宗像高に26−10で勝利、フェスタに花を添えた。試合後、記念祝賀会が催された。朝鮮大学校ラグビー部卒業生初のトップリーガーでヤマハ発動機ジュビロ所属の徐吉嶺選手(23)は「全源治先生が九州朝高にラグビー部を創ってくれたおかげで、現在の自分がいる」と述べた。 団結の契機に
「朝高タックル見せよう!」−OVER40チームが盛り上がっていた。昨年11月の結成から8カ月間、欠かさず毎週練習してきた。今後も活動を続けていきたいと話す許鳳亨主将(41)によると、「(組織から)離れていた先輩らが戻ってきた」そうだ。メンバーは、ラグビーで築いた絆を今日も深めている。 同窓生らとラグビー談義に花を咲かせていた朴成大さん(50)は「九州朝高、九州闘球団があり、在日ラグビーがあると自負している。伝統を守っていきたい」と熱く語る。 一方、日本初の外国人チーム、1975年結成の朝青クラブ(九州闘球団)団長の文性理さん(55)は、「生徒数は減ってきたが、しっかりと部を守ってくれている。ともに力を合わせ九州朝高ラグビー部の発展に協力したい」と決意を披瀝した。 半年間にわたり準備されてきたフェスタは、半世紀の歴史を振り返るとともに、OBらが力を合わせ団結していくための契機でもあったと実行委員会の朴昌連委員長(50、朝大ラグビー部OB会会長)は指摘する。「今後、大阪、東京のようにOBを組織化していきたい」。
実行委員会ではこの間に、OBら約350人の名簿を整理した。「孝司事務局長(47)は、OVER40の練習を通じOBらが「拠り所」を求めていることを実感した。民族教育の優位性を感じ取れるような環境を、学校を中心にひとつずつ作っていきたいと話す。 OBには、九州地方の愛族愛国運動の中心を担っている人物が多いと、ある関係者は話していたが、総連福岡県本部の李周学委員長は「今日の行事を機に、多数のOBと連携をとれるようになった。非常に大きな力となるだろう」と述べた。 一方、同校ラグビー部は昨年に続き「九州高校10人制大会」で2連覇を果たし、伝統を守った。現在、監督を務めるのはOBでもある金成三教員(34)だ。「全源治先生に倣い、ラグビーを通じ愛族愛国の道に身をささげていくような子どもを育てたい。同胞に力を与えられるよう、力を発揮していきたい」。 同部の部員は現在、マネージャーも含め19人だ。部員をまとめる文卓勇主将(高3)は、「栄えある部だけに発展させていきたい。とくに今年は、10月の全国大会予選で福岡県ベスト16突破を目標にしている」と力強く語った。 パイオニア
九州朝高にラグビー部を創部したのは全源治さん(74、在日本朝鮮人闘球協会名誉会長、朝鮮大学校ラグビー部名誉監督)だ。57年に東京教育大学(現筑波大学)を卒業し、前年に創立された九州朝高に赴任、58年にラグビー部を創部した。 「ラグビーをやらないか。男子がやるスポーツだ」−運動場に楕円球を転がした全さんの一声は、生徒たちの心をつかんだ。朝鮮学校における初のラグビー部結成だ。 存続の危機に襲われたこともあった。しかしそんなときも、生徒らは部を必死に守った。草創期には「ボールを持ったら突進するように」としか指導してこなかったという全さん。その顔の皺から、在日ラグビー界50年の歴史が伝わってくる。 全さんは68年、朝大に移った。朝大での教え子たちが教員となって各地朝高にラグビー部を創り、やがて社会人チームの闘球団も創られた。 「この50年の間に、大阪朝高は全国大会に3度出場した。東京朝高も実力をつけた。感慨無量だ。九州朝高は先輩たちの伝統をう余曲折を経ながらも受け継ぎ、50周年を迎えた。これもまた感慨深い。朝鮮語を知らなかったわたしは、金日成主席、祖国、組織、同胞のためにラグビーをするよう教えてきた。そのことを教え子はしっかりと継いでくれていた。今後も大阪、東京を中心に『全国』をめざし、ともにレベルアップしていってほしい」 来年、結婚50周年を迎える全さん。フェスタ会場には妻、張龍貴さん(70)の姿もあった。九州朝高に赴任した当時、朝鮮語を話せなかった夫は必死で勉強していたと回顧しながら、「夫はラグビーボールが第一で、自分の子どもと遊ぶ時間もなかった」。 全さんは昨年、くも膜下出血で倒れた。朝大の試合観戦に訪れた際のことだった。たまたま朝大生が試合でケガをして、会場に救急車が着ていた。全さんはすぐに、その救急車で病院に運ばれ、迅速な対応のおかげで一命をとりとめた。後遺症も残らなかった。 ラグビーが命を救ってくれた(張さん)。 「たくさんの生徒たちに囲まれて、うらやましいほど最高の人生を送ってきた夫を尊敬しています」(李東浩記者) [朝鮮新報 2008.7.16] |