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トンネの中心で「缶」と叫ぶ

 取材先で先輩、後輩または友人と出会うことが多い。その彼、彼女らが現在、学生の頃は想像出来ない「カタチ」(容姿含む)で同胞社会の中にいるのだから、人生はやはり不思議に満ち溢れている。

 そんな偶然だか、必然だかが生んだとある食事会の席。昔話から始まり、よりよい同胞社会のためには何が出来るのかと議論を交わす中、突如として友人が、「イェス、ウィ、『カン』!」と叫んだ。楽しい宴もここまでと、帰り支度を急ぐ友人たちを尻目に彼は冷静な口調でつぶやく。「そうだ、我々は『カン』なんだ」と。

 酔っている風ではなかった。いたって真面目に「カン」とは「缶」のことだ、我々がこれからは同胞社会の「受け皿」にならなければいけないんだという。

 面白い発想だった。表現はともかく、個人でも「受け皿」になれるんだという友人の熱意に感銘した。「お前は民族結婚の『缶』だ」などという強引な言い回しは受け入れがたかったが、同胞社会にはみんなが幸せになるためのたくさんの「受け皿」が必要だという友人の言葉は大切にしたい。

 友人が言う「缶」という言葉には、卑屈な思いや、安っぽいヒロイズムではない、自分を育ててくれた同胞社会への恩返しの気持ちと後輩たちへの愛情が込められていた。

 もし街中で「イェス、ウィ、『カン』!」と叫ぶ者あれば、その彼は記者の友人だ。トンネの中心で「カン」と叫ぶものがあれば、それは同胞社会が育んだ頼もしい活動家だ。きっと力になってくれる。(丘)

[朝鮮新報 2009.3.30]