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北海道・浅茅野飛行場建設、朝鮮人労働者の惨状

過酷な労働と虐待、真実の掘り起こし急務

今は牧場になっている飛行場跡

 北海道の北端、稚内市からオホーツク沿岸を60キロほど下った所に、酪農とホタテ漁で知られる宗谷郡猿払村と浜頓別町がある。

 アジア・太平洋戦争時、陸軍は豊かな生活が生きづくこの地に、浅茅野飛行場の建設を突貫工事で進めた。この工事には強制連行した多くの朝鮮人を使役したが、過酷な重労働や粗食、病気や棒頭による虐待などで犠牲者が続出した。日本政府や工事を請け負った企業は、敗戦後63年が過ぎても、この事実を明らかにする努力をしていない。

 浅茅野飛行場は「宗谷海峡の防衛と対米作戦を意図して建設された」(『発掘事業』2006年報告書)という。『浜頓別町史』によると、第一飛行場建設は1942年6月頃から着工した。陸軍航空本部仙台出張所の直轄で、鉄道工業、丹野組、菅原組、川口組が行った。第二飛行場建設は42年4月頃から着工。この工事のために朝鮮人が来た時の様子について、「浜頓別駅に特別列車が到着した。憲兵の監視の中、朝鮮からの労務者300人が、不安と寒さに震えながら次々と下車。駅前に待ち構えたトラックが早速、12キロ離れた6月に着工したばかりの飛行場建設現場に運び去った」と『ふるさと百話』に記録されている。

 日本政府や関連企業が資料を公開しないため、強制連行された朝鮮人の数はわかっていない。

 資料によると、「およそ1000人から1200人の朝鮮人が浅茅野にいた」(『発掘事業2006年度報告書』)。また、工事を担った丹野組の藤本庄八は「浅茅野飛行場で働いた(朝鮮人は)1500人」(『朔北の地に埋もれた涙』)と証言している。この他に「この工事に動員された労働者は、少数の日本人と、強制連行されてきた約4000人の朝鮮人労働者であった」(『朝鮮人強制連行・強制労働の記録』)とさまざまだ。

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旧共同墓地と慰霊柱 (上下とも「北海道」フォーラム提供)

 浅茅野に連行された朝鮮人が入った飯場は新築のバラック建てで、四方がベニヤ張りで窓がなかった。夜は飯場ごとに鍵がかけられた上、周囲には逃亡を防ぐために鉄条網が張り巡らされていた。

 寝床にはムシロを敷き、汚れた2枚の毛布が支給された。丸太に毛布を巻いた枕を使い、4、5人が寝た。朝に丸太の端を叩くと、一度に4、5人が目を覚ます仕掛けだった。

 朝鮮人は午前5時に起こされ、立ち飯台で食事をした後、行列を組んで作業現場に連れ出された。主な作業は原野に飛行場を作ることと、飛行機を隠す掩体壕の建設だった。人の背よりも高い根曲がり竹を刈り払い、大木は切り倒して抜根した。朝鮮人は裸足なので、釘のような竹の切り口に刺され、足は血で染まった。その後はトロッコで土を運び、谷間を埋めた。

 滑走路は数人で練ったコンクリートを2斗樽に詰め、2人で竿に引っ掛けて運搬し、台地に敷いた。掩体壕モッコで土を担ぎ上げ、高い土塁を作ったが、いずれも過酷な作業だった。昼は30分で食事を取り、日が暮れるまで続いた労働は、北国の長い夏だと14、5時間に及んだ。

 食事は、朝と夕は大根葉などを混ぜた外米飯がどんぶりに半分と味噌汁、昼は小さな握り飯が2個、多くの人が栄養失調で苦しんだ。

 体がやせ細り働きが鈍くなった朝鮮人は、現場の棒頭が蹴飛ばして土の中に埋めたり、棍棒で叩きのめして池に落としたりし、そのまま死なせることがあった。原っぱの井戸に飛び込み、自殺する人もでた。生きる望みを失い、逃亡する人が増えたものの、ほとんどが捕らえられた。飯場に連れ戻され見せしめにツルハシの柄で殴打され、そのまま発熱や下痢などを起こして死んだ。

 病気になる人も多く、浜頓別町の弘山医院では「廊下も階段も足の踏み場がないほど大勢の朝鮮人がいて、アイゴー、アイゴーと泣いていた」という記録がある。また、作業服は1着だけで、汗や雨で濡れても着て眠り、翌日そのまま仕事にでた。水洗いもできない。そのためシラミが沸くようにでた。

 44年に発疹チフスが大流行し、多くの死者がでた。遺体は資材や荷物の輸送係の馬車屋が、猿払村の成田の沢の共同墓地に運んだ。「直径20メートルぐらいの穴が掘られ、その穴の中へ死体を投げ」入れたという。「少ないときは10体、多いときは5、60体の死体を運んだ。一日に2往復することも度々だった」。しかも、チフスの蔓延を防ぐためと将校に命ぜられ、「現に息をし、うめいている人たちを生きたまま穴へ投げ込んだ」(『朝鮮人強制連行・強制労働の記録』)という。

 浅茅野飛行場建設工事における朝鮮人犠牲者の数は今も不明である。『発掘事業2006年報告書』では119人(国籍が朝鮮−95人、日本−15人、不明−9人)の他に、80人ほどの死亡者がいたと推定されている。また、役場に死亡届がだされない、「闇から闇に葬られた人たち」がおり、その数も不明だという。『北海道探検記』(本多勝一著)では遺体を運んだ証言者が「自分が運んだ分だけでも200体」と推定している。

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 『宗谷要塞関係聴取録』によると、第1、第2飛行場とも、戦時中に完成している。「こうしてできた板敷きの滑走路には、赤トンボや戦闘機が一回姿を見せただけで終戦を迎えた」(『ふるさと百話』)という。巨費をかけたうえに多くの犠牲者を出した飛行場建設は、いったい何だったのだろうか。敗戦後に飛行場は民間に払い下げになり、現在は牧場になっている。

 多くの朝鮮人が埋葬された成田の沢の共同墓地は、53年に地元住民が新しく造成した所に日本人の遺骨を移したので、朝鮮人の遺骨だけが残った。墓地は私有地になり、トドマツが植樹された。しかし、朝鮮人の遺骨をこのまま放置できないと思った地元の人たちが、発掘を試みたという話が伝わっている。

 2005年秋、「強制連行・強制労働犠牲者を考える北海道フォーラム」が、朝鮮人の遺骨がまだ埋まっているという地元の古老の証言に基づき、旧共同墓地で発掘を行ったところ、成人男性の埋葬遺体が1体出土した。翌年夏には総勢300人が参加した発掘作業で埋葬遺骨1体、火葬遺骨10体分が出土し、法要を営んだのちに浜頓別町の天祐寺に預けられた。

 今回の発掘調査には「北海道フォーラム」、猿払村、浅茅野地区住民、北海道大学、忠北大学(南朝鮮)などから約50人が参加した。期間中にほぼ全身の遺骨1体を含む7人の遺骨が発掘された。旧共同墓地にはまだ遺骨が埋められている場所が4カ所確認された。

 最終日の5日に浅茅野交流センターで開かれた追悼式に、池玉童さんが参列した。飛行場建設に連行され、その時に殴られて右耳の聴力を失ったという池さんは66年ぶりに現地に赴いた。過酷な労働やチフスで生死をさまよった体験を明かし、この地で亡くなった同胞に「(自分は)生きて帰って申し訳ない」と、白木の箱の遺骨に手を合わせて涙ぐんだ。そして、「連行された家族たちは今も、生きて帰ってくると待っている。どうか真実を掘り起こし、せめて遺骨が遺族の元に帰ることができるようにしてください」と訴えた。

 「北海道フォーラム」では、第2次発掘に取り掛かる前に、日本政府、北海道、工事を請け負った企業の後継会社に発掘の計画を伝えた。

 しかし、60数年ぶりに次々と遺骨が掘り出される中、一通の手紙も、一本の電話も寄せられなかった。(野添憲治、作家)

[朝鮮新報 2009.5.26]