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上田誠吉弁護士を偲ぶ 在日朝鮮人の人権擁護に献身

「他民族を抑圧すれば自らも自由ではない」

 60年近い弁護士生活で一貫して在日朝鮮人の人権擁護に献身され、私たちを力強く温かく励まし、勇気づけてくれた恩人ともいうべき上田誠吉弁護士が、宿痾のため5月10日に逝去された。

 渾身の思いを込めて執筆された著書「国家の暴力と人民の権利」が示すように
82年の生涯は、国家の暴力に抗い続け、日本の平和と民主主義、人権を守りつつ、一方で在日朝鮮人の人権問題の解決に取り組む日々でもあった。

 物静かにゆっくりと話される深く、重い一言一言に教えられ、長年その薫陶を得てきた者の1人として、もうお会いすることのできない現実に、ただ胸が痛む。

 最後にお会いし、親しくお話させてもらったのが、96年2月の人権協会主催の懇親会の場であった。「在日朝鮮人の人権と弁護士生活」について熱っぽく語られたその姿がいまも記憶に残る。そのうちに…と思いつつ不義理を重ね、お会いする機会をなくしてしまった。悔やまれてならない。

「会」結成に心血

 1950年に弁護士になった上田先生は、GHQ(連合国軍総司令部)による「在日本朝鮮人連盟」の不当な財産接収に反対し、その補償を求めるたたかいを皮切りに在日朝鮮人の人権擁護活動の中にいつも身をおかれた。

 1960年代、「韓日条約」締結を前後して日韓両当局が在日朝鮮人の人権に対する全面的弾圧を強行しようとしたとき、上田先生は弁護士、学者、国会議員らと「在日朝鮮人の人権を守る会」(1963年)を結成、中心的役割を担いつつ、人権を守るたたかいで文字通りその先頭に立たれた。

 「他民族を抑圧する民族は自らも自由ではない…身近に住んでいる他民族の人権が侵されるような状況下においては、日本人自身の人権も守られることはあり得ないという意味で、在日朝鮮人の人権問題は、日本人自身の人権問題」(「在日朝鮮人の基本的人権」)とする共通認識の下、その後のたたかいにおいて、いわば、バイブル、教科書といわれた「在日朝鮮人の法的地位」、「在日朝鮮人の民主主義的民族教育」等の3部作を共同で書き上げる一方、在日朝鮮人の社会活動、民族教育を規制する「出入国(管理)法案」「外国人学校法案」の廃案、朝鮮大学校の設置認可を求める活動にも努力された。

 とりわけ心血を注がれたのは、それまで不安定かつバラバラに定められていた在日朝鮮人の在留資格を一本化し、その在留権をより安定させることであった。そのために多くの論文も書かれ、講演もこなす忙しい中、入管当局が歴史的事情も無視して「不法入国」や「密入国幇(ほう)助」といった口実で親子、兄弟間に離別を強いる退去強制処分を乱発したことに対しては数百名の弁護士とともにその取り消しを求める訴訟を日本各地で展開された。

 その甲斐あって、たとえば北海道の柳禎烈さんへの退去強制処分の取消を求める裁判では入管相手にはじめて勝訴する画期的な判決を勝ち取ることができた。

物怖じしない取り組み

 在日朝鮮人にとって大きな念願であった在留資格は「特別永住」に一本化され、在留権、法的地位もより安定したものとなった。

 これらのたたかいのなかにはいつも上田先生の姿があり、その成果のひとつひとつに上田先生の長きにわたる大きな尽力があったことを私たちは決して忘れない。

 上田先生は在日朝鮮人の人権擁護だけでなく過去の植民地清算の問題にも深い関心を寄せられ、日朝合同の強制連行真相調査(74年・九州)にも参加され、朝鮮の統一に関する国際会議にも出席し、私たちの悲願実現に心温かい支援を寄せられた。

 上田先生はメーデー事件の主任弁護人を務められ、松川事件も担当、多くの無罪判決を勝ち取られるなど、日本の民主主義と平和、人権を守るうえでも大きな足跡を残された。1974年からは10年間、伝統ある自由法曹団の団長も務められた。

 このような激職にありながらいつも朝鮮民族を思い、在日朝鮮人の人権を自らの、日本人自身の人権問題としてとらえ、共にたたかい、朝鮮の統一にも心を砕いて下さったことに万感の思いをこめて心から感謝を捧げたい。

 生前上田先生は、自らの体験を踏まえ、「いつも新しい問題への物怖じしない取り組み」についてもよく話された。

 上田先生を失った今年、朝鮮大学校卒業生が司法修習生活を終え、弁護士生活をスタートさせた。

 私は、上田先生たちに支えられ、生まれ育った彼(彼女)らと共に新しい問題に物怖じしない取り組み″を心がけたいと思う。そのことこそ上田先生への手向けになり、遺志を継ぐことにもなると確信しつつ。(柳光守、在日本朝鮮人人権協会顧問)

[朝鮮新報 2009.6.15]