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〈万華鏡−5〉 日本語の中に氾濫する外来語

 たまさか異国の日本で生まれ育った私たちにとって、日本語というのは、とても他人事とは思えないしろものだ。そんな身近な日本語であるが、とくにここではいわゆるカタカナ語について考えてみたい。

外来語とは何か

 現代の日本語について、多くの人に共通した素朴な印象として、外来語の氾濫ということがある。

 「氾濫」という言葉によく表れているように、外来語が一定の限度や許容量を超えてあふれ出し、結果として好ましくない状況を招いているという危機意識があるようだ。

 それは、言葉は思考形成とコミュニケーションの重要な手段であるにもかかわらず、一般の人々になじみのない外来語が世の中に出回ることによって、日常生活での大切な情報のやりとりや意思の疎通に支障が生じているからである。

 外来語とは、日本語の中に入ってきた外国語のことだが、もはや「外国語」ではなく、「日本語」と化した言葉である。広義には漢語(中国語から入った言葉で、漢字表記され、音読みされる)、洋語(欧米から入ってきた言葉で、カタカナ表記される)を指し、狭義には後者のみを指す。

 最近は、英語を中心とする外来語が急速に増えてきたためカタカナ表記が目立つようになり、「カタカナ語」という呼称が定着してきている。ちなみに「和製英語」とは、一種の造語で、実際は英語にはない言葉であるのに、あたかも英語のように考えられて日本で使われているカタカナ語を指す(例えば、「ナイター」「ハンドル」など)。

 外来語としての英語が、カタカナ語として日本語の中で使われる際に生起する意味のずれは大別して二種類あると思われる。

 ひとつは、日本にはない新たな事象や概念を表わす単語であり(アイデンティティー、ドメスティック・バイオレンスなど)、もうひとつは、意図的に内容をぼかして使用する事例である(ケア、リストラ、ガイドラインなど)。

 明治の近代化においては、日本にない事物や思想については新たな翻訳語を工夫したことが知られているが、最近は例えば、前述の「アイデンティティー」などカタカナ語を使用することが増えている。そしてそのカタカナ語が日本社会で使用される際には、原語が有する歴史的あるいは文化的背景が捨象されてしまうことも多い。

「カタカナ語」の増加

 21世紀に入ってカタカナ語の増加は驚くほどであるが、それにはいくつかの理由があると思われる。

 まず考えられるのは、ボーダレス時代の情報通信網の発達である。全世界的に広がるインターネットの共通語が英語だという現状は、怒涛のような英語の流入を余儀なくさせている。

 しかし、原因はそれだけでもなさそうだ。

 日本において、世界はグローバル化しているという意識が広まるとともに、国際語としての英語が重要視されてきており、それは「英語を使える日本人を育成する」という日本の国家政策にも表われている。カタカナ語の使用に、「国際語としての英語を使用している」という幻想が混じっているのではないだろうか。

 その昔、脱亜論を展開し、西欧を「文明」、アジアを「未開野蛮」とみて、アジアを排し、西欧近代文明を積極的に摂取し、西洋列強と同様の道を選択すべきだとの主張がなされたが、そんな潮流が今もなお根強く残っているのかもしれない。

 そしてそれを容易にしているのが「カタカナ」という独特の日本語表記法そのものである。原語の音声を可能なかぎり取り入れながら日本語化し、しかもカタカナ表記を見ただけで、外来の言葉という異質性を感じることができる。適当な日本語が見つからないなら、そのまま「カタカナ」にしておけば、「外国」がごく自然に「日本」の中に溶け込むわけで、訳出の手間を省く機能をもつ。

 かつては日本にはない概念を何とか日本語で表現しようと、例えば、「society」という英語を「社会」、「philosophy」を「哲学」と、新しい日本語を作り上げて対応させたが、こうまで多量の英語が流入するようになると、いちいちそんな努力を傾けていられないのであろう。そのままカタカナで「ソサイエティ」としておけば、日本語の「世間様」とは違った社会が浮かび上がる。やがてそれも面倒になり、「ハイソ」などと短縮して上流社会を意味するようになっていく。

 カタカナには同時に、異質性と斬新な響きを併せ持つ語感があり、しかも専門性を感じさせるところから、それは「専門家」というステータスの顕示のために使われることもある(実際、日本語表記における文字の使い分けでは、カタカナは専門語や擬声語、擬態語、外国の地名・人名・強調語に用いるとなっている)。

「ぼかし効果」

 さらに検討していくと、カタカナ語の利便性をあげるものとして、ぼかし効果が顕著である。ふつうの日本語でいってしまうと、身もふたもない事象が、カタカナを使うことで、現実が曖昧にぼかされ、覆い隠され、明るく軽やかに響くことがある。「介護」というと、いかにもつらく暗いが、「ケア」といってみると、深刻さが消え、おしゃれな感じになる。「職業安定所」を「ハローワーク」、「家政婦」を「ハウスキーパー」というのもそうだ。内実が変化したわけではないが、現実のイメージが薄められる効果がある。「セクハラ」も「リストラ」も同様に、本来は軽くは口にできない重い事態であるのに、カタカナの効用で軽くなり、案外、すっと口にすることが可能になる。カモフラージュ、まさしくぼかし効果である。

 日本語は本来、差別語や政治的意図を含んだ言葉を他の語に言い換えようとする傾向が強い。もちろん、それはカタカナばかりではないが。物事の本質や責任所在をあいまいにぼかす言語使用に長けた日本語のなせる技だと言わざるをえないであろう。(李永生、朝鮮大学校・外国語学部講座長、教授)

[朝鮮新報 2009.7.6]