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〈万華鏡−6〉 大学課程において外国文学を学ぶ意義について

 外国文学と聞くだけで「文学はどうも苦手」だとか、とくに「外国人の名前が難しくてついていけない」などという意見をよく耳にする。実際外国文学に接する時の私たちの姿勢には、どことなく「異邦人」「外国人」と接する時のような違和感、緊張感があるかもしれない。

人生を豊かにする

 その理由の一つに挙げられるのは、翻訳の善し悪しではないかと常に考える。昔から日本では、西洋文化に学べと本来なかったものを積極的に取り入れることによって独自の文化を発展させてきた歴史がある。英語の翻訳に使われる「彼」「彼女」という言葉はその代表格で明治以前に日本では使われなかったこのような言葉(翻訳語)が英語の文章でひんぱんに現れる「he」「she」の対語として急速に一般化されてきた。その他にも外国文学の翻訳本を見るかぎり、今でも「こんな言葉は日常使われないのに」と思われる「悪訳」「珍訳」「誤訳」を見つけるたびに読書の楽しみが薄れていくのを感じざるをえない。

 大学で英文講読の授業を長い間受け持ってきた関係上、学生の数だけ、おもしろい、時に奇想天外な朝鮮語訳にも数多く接してきた。ここ何年かの学生たちの翻訳傾向から気がついたことを整理すると次の通りである。

 まずは読書力の不足から生ずる翻訳の限界である。

 たとえば、単語だけでいえば英国の小説に多数出てくる「cathedral(大聖堂)」や「ploughman(漁夫)」「governess(女家庭教師)」などは訳せるのだが、実態がわかっていないので翻訳も何かぎこちなく張り付けたようなものになる(逆にそのような言葉を図表入りの百科事典などで詳しく調べるだけで、いかにもそのものを実際に見たような経験ができるのは外国文学を読むうえでメリットになるのだが)。

 外国の文学作品を訳すには、訳される言語でもそれだけの文学作品を読んでいなければうまくいかないというのは鉄則である。朝鮮語で訳そうとする私たちが朝鮮文学にある程度精通していなければ、外国の著者が何を意図して文章を練り上げているかなどは想像もできないのである。

 他の外国語の文章(たとえば新聞記事や手引書など)を訳すのとは違って文学作品を訳すときはその国の文化、社会、あるいは国民性や土俗、風土なども含めて一般的なコモンセンス(常識)なしには歯が立たないし、それこそ「異邦人」「宇宙人」の言葉にしか見えないだろう。

 言葉、文学は人の思想を築くうえで素晴らしい力を持っている媒体である。外国語、外国文学を深く知り、学ぶことによって自分の世界から抜け出て開かれる世界というのは無限に近い。学生たちの前で私はよく「外国文学を通じていろんな人生を経験した」という話をする。実際、人生行路のいたるところで出くわす場面に対処する方法は小説の一部分から知識として身についている場合が多いと思う。判断を要する場合においてどう対処するのかということは以前の文学読書で経験しているのか、無意識に感じているのかで大きく左右される。前述したような「文学(とくにフィクション)はどうも苦手」という人は人生を豊かなものにする大事なものを見逃しているようで惜しくもある。

より身近なものに

 最近の翻訳出版事情を通して翻訳のコツをつかむことによって、外国文学(訳書)をより身近なものにできればそのような警戒心も薄まるのではないだろうか。

 日本だけでなく他国においても人気が高い作家の村上春樹氏や翻訳者の柴田元幸氏が翻訳談話をしているが、彼らの考えでは翻訳は時がたてば「賞味期限」が切れるので今の読者(とくに若者層)をターゲットにした現代語訳なるものも試みていると言っている。

 光文社「古典新訳」文庫には、新進の翻訳者たちがわれ先にとシェイクスピアやブロンテ、スティーブンソンなどの翻訳に挑戦している。同文庫の「カラマーゾフの兄弟」は大絶賛発売中である。

 古典が新しい訳によって「息を吹き返す」このような傾向は、私たちにとって歓迎すべきことである。近頃、「石油!」というアメリカプロレタリア文学の代表作が実に78年ぶりに旧訳のまま新しく出版された(平凡社)。他にも私自身が学生時代に親しんだリアリズム作家ジャック・ロンドン(「鉄の踵」は朝鮮でも訳されている)の訳書が再度出版されたりすると、昨今の日本の社会情勢はもちろんのこと、海外に目を向けても混沌とした厳しい政治、経済環境に影響を受けざるを得ない私たちの心の中を顧みるほどである。

 外国文学を直に味わって堪能するには外国語をマスターするに越したことはない。できれば日本ではなく海外に身を置き、原書で小説の語られる世界(駅や公園、邸宅や田園)に溶け込むのがベストであろうことに疑いはない。小説を現地の外国人と一緒に鑑賞できればなおさらである。

 しかし、そのような時間的、空間的余裕がないのであれば、せめて書店や図書館で接することができる数少ない機会を逃さず、外国を知って自国を知るという原則のもと大いに読書を楽しんでほしいと思うのである。(高日健、朝鮮大学校外国語学部講座長、准教授)

[朝鮮新報 2009.7.13]