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「明成皇后を考える会」の甲斐さん 西東京東部同胞文化講座で講演

「過去を直視し真の友好を」

 西東京東部同胞文化講座が12日、東京都東村山市の国平寺で行われた。今回で9回目となる講座では、熊本から招待された「明成皇后を考える会」の甲斐利雄さんと総連熊本県本部の朱永徳副委員長が「明成皇后と熊本」をテーマに、明成皇后(閔妃)殺害事件や同会の活動などについて語った。

和解から交流へ

「明成皇后と熊本」について語る甲斐利雄さん

 1895年10月8日、陸軍中将・三浦梧楼日本公使は、朝鮮から親ロシア勢力を排除し親日政権を樹立させるため、最も野蛮な方法を選択した。三浦が組織した日本兵、公使館員、在留日本人を含む「守備隊」と「壮士」らは、日本刀を振りかざし国王夫妻の住む乾清宮に乱入し、宮女を斬りつけながら明成皇后を捜し出して殺害し、遺体を辱めたうえで燃やした。

 国際的な批判を浴びた日本は、関係者らを広島で裁判にかけたが、証拠不十分として全員が免訴となった。虐殺に関わった48人のうち21人は熊本県出身者だった。後に大臣、新聞記者、校長として名を残した者もいる。

 甲斐さん(80)は「事件の110周年を無為に迎えてはならない。熊本の住民として学習運動を起こすべきではないか」と考え、2004年頃から本格的に調査活動を始めた。

 事件の関係者について調査し、その子孫らに話を聞くための活動は困難を極めた。だが、南朝鮮でドキュメンタリー映画に取り上げられたことなどにより、熱心な活動に対する理解が広がった。

 04年11月には同会が発足し、翌年5月には事件関係者の子孫を含む会員11人が南朝鮮を訪問、明成皇后の史跡を訪れた。08年10月には、日本人として初めて明成皇后墓前祭に参列した。

 日本では「韓国に行って土下座した」と中傷された。だが、「命日に墓を訪れ韓国の人々の礼儀をこの目で確かめて同じやり方でやった」(甲斐さん)。それが事件について心から謝罪し礼儀を通す道だった。そうした誠意が伝わり、明成皇后の子孫らは「殺害者の子孫」を受け入れ、交流を深めるようになった。

 この日の講座には明成皇后の直系の子孫が参加した。過去を直視し真の和解と友好のために活動する日本人がいることを涙して喜んだ。

「これからどうする?」

西東京東部同胞文化講座(12日、東京)

 甲斐さんは教員時代の教え子だったある在日朝鮮人の少女から事件について初めて聞かされた。「世の中のすべてのことは一人ひとりの一歩から始まる」ことも学んだ。「これで私は突き動かされた。この時の出会いがあったから今の自分がいる」という。

 事件について研究する過程で取材を受けたとき、いつも「これからどうしますか?」と記者に質問をぶつけられた。「もう逃げられない。やらにゃいかん」と決心した。

 甲斐さんは、日本と朝鮮の関係について「真の友好のためにはどうしても知らなければならないことがある。知る者と知らない者が表面上仲良くしても腹の底は違っている」と指摘する。そして、「歴史を学ぶには現場に行くことが一番大事だ」と強調する。

 ただ「自分は歴史学者ではなく話の運び屋だ」「自分は絵にならない。額縁でいい」と謙遜しつつ、「人と人とをつないであげたい」と熱い思いを語る。

 朱さんと甲斐さんの出会いは1996年頃。日本軍「慰安婦」の歴史教科書記述問題がきっかけだった。その後、日朝友好運動などで連帯を深めていった。

 朝鮮を侵略した加藤清正は肥後熊本藩初代藩主。朝鮮戦争勃発前、米軍は熊本で演習を行った。

 こうした朝鮮と熊本の深い関係について言及した朱さんは、「平和と友好を願うわれわれの行動は世界を変えつつある。大切なのは事実を知って一人ひとりが行動を起こすこと。朝鮮と日本の関係を1aでも1_でも近づけたい」と力強く語った。

 最後に甲斐さんは「みなさんはこれからどうしますか?」と問いかけ、「私は今日、みなさんから元気をもらった。まだまだがんばれる。みんなで世の中を変えていこう」と呼びかけた。(泰)

[朝鮮新報 2009.9.28]