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3基の慰霊碑を訪ねて サハリンでの朝鮮人強制連行

朝鮮人望郷の丘碑(コルサコフ市望郷の丘)

 今年の9月下旬、ロシアの国立サハリン大学と日本の大学との「サハリン・樺太史研究会09年度合同調査団」に加わり、サハリン州(旧樺太)に行って8日間滞在した。

 サハリンと北海道の宗谷岬との距離はわずか40キロ余りと近く、南北に900キロと細長い島の面積は北海道に匹敵する。サハリンにはもともと少数民族が住んでいたが、18世紀になると日本とロシアが勢力を伸ばし、日露戦争の結果、1905年以降は北緯50度以南は日本領、以北はロシア領となった。日本領は台湾よりやや広いが、領有後は林業、漁業、炭鉱、パルプ工業などの開発が進められ、本土から多くの日本人労働者が渡り、敗戦時で約35万〜40万人に達した。

 また、サハリンでは早い時期から朝鮮人が働いていたが、第2次大戦中には日本人男性の労働力不足を補うため、強制連行された朝鮮人が渡った。敗戦時でその数は約4万3千人といわれているが、資料によっては6万人というのもあり、正確な人数はわかっていない。

サハリン犠牲死亡同胞慰霊塔(ユジノサハリンスク市ジェルジンスキー通り)

 サハリンでの私の仕事は、戦前にこの島で働いた日本人労働者の資料収集だった。とくに北海道や東北から多く渡った漁業や林業の出稼ぎ者の実態は、これまでほとんど調べられていない。今回はその出稼ぎ者にしぼって資料を集めた。州都ユジノサハリンスク(旧豊原)の州立郷土博物館や文書館で資料を読み、残留日本人から聞き書きをした。

 その一方では、私が日本で、強制連行された朝鮮人が働いた現場を歩いてきたなかで、夜中に船でサハリンに運ばれたり、逆にサハリンから本土に転出してきた朝鮮人が多かったのを知っている。そのことも調べたいとサハリンに行ったのだが、短い滞在のなかで二足の草鞋は無理だった。しかし、サハリンを歩きながら三基の朝鮮人慰霊碑を見ている。とくに一基は、日本で紹介されたことのない碑だった。その碑を紹介する形で、知りえたサハリンの朝鮮人強制連行の実態を報告したい。

■サハリン犠牲死亡同胞慰霊塔

 サハリンに強制連行された朝鮮人は、飛行場建設や工場で働いた人もいたが、大半は炭鉱で働いた。朝鮮人は坑内で一日10時間から12時間の労働を強いられたうえ、食事は雑穀や大豆の混じった飯に、身欠きにしんが数切れと貧しかった。重労働と粗食で体を壊しても病欠は認められず、逃亡しても土地がわからないのですぐに捕えられた。飯場に連れ戻されると半殺しになるほどリンチを受け、なかには死ぬ人もいた。

 また、戦時中のサハリンの炭鉱は、事故が非常に多かった。「日本政府の資料を見ても、1939年から43年までの5年間で、炭鉱事故による死傷者はなんと約3万2千人(うち死亡者は約550人)に上がっている」(『サハリン棄民』)うえに、「炭鉱事故犠牲者が出るのは、主として朝鮮人労働者の多い炭山であった」(『朝鮮人強制連行・強制労働の記録』)が、朝鮮人犠牲者の正確な人数はわかっていない。

■サハリン韓人二重徴用坑夫被害者追悼碑

サハリン韓人二重徴用坑夫被害者追悼費(ユジノサハリンスク市ジェルジンスキー通り)

 サハリンの炭田は全島の約20%と広く、炭質は大半が瀝青炭でカロリーが高く、製鉄用コークスとして最適だった。サハリンは1931年に石炭移入地から石炭移出地になり、その大半を内地に送った。この石炭増産の原動力になったのが、朝鮮人坑夫だった。

 しかし、アジア太平洋戦争の戦局が悪化してきた1944年になると、サハリンから内地向けの石炭積取船の回航がほとんどできなくなった。そのため軍需省は、島内の需要にあてる9炭鉱だけを残し、その他の鉱山は閉山とした。9月になると廃鉱の坑夫たちが身回り品だけを持って「短期間に2万数千人が樺太から移っていった。おもな移転先は三井、日鉄系炭鉱からは田川、三池、夕張に、三菱炭鉱からは高島、崎戸のほか一部は千島方面にもいった」(『樺太終戦史』)という。また、「朝鮮人炭坑労働者もその一部(1万〜2万といわれる)は内地に送り返された」(『サハリン棄民』)というが、碑の裏には北海道と九州に移動した朝鮮人は約15万人と考えられると記されている。人数が大きく違うが、移動した朝鮮人の名簿、死亡した人数などの資料は見つかっていない。

■朝鮮人望郷の丘碑

 戦前、サハリンに渡った日本人や朝鮮人の多くが上陸したコルサコフ市(旧大泊)の港は、現在は軍港なので許可なしには近寄れない。そのため、港が見渡せる望郷の丘に行くと、そこに建っていたのがこの碑だった。帰国できずに異郷の地で死んだ人たちの魂を鎮めるために、2007年9月30日に建てたと記されているが、それ以外の詳しいことはわからなかった。碑は船の形をしているが、船で故国に帰りたいという思いを表現しているのだろうか。丘からは1928年につくったという桟橋が、赤く錆びて見えた。

 サハリンにはこの他に、1945年8月20日から21日にかけてホルムスク市(旧真岡)から東方約40キロにあるチェプラノオ村(旧瑞穂村)で起きた、朝鮮人27人の惨殺事件がある。村の在郷軍人や青年団員など22人の日本人が、集団で軍刀、槍、銃などで殺害したもので、このなかには婦人3人、幼児6人が含まれている。この事件を悼む碑が村に建っているというが、今回は行けなかった。

 ソ連軍が北緯50度を越えて突入して混乱した時に、「樺太の軍や憲兵などの間で朝鮮人大量虐殺の計画が密かに立てられていた。被抑圧者のつもりつもった恨みが爆発することを恐れてのこと」(『置き去り』)で、瑞穂村虐殺事件の他に上敷香警察署虐殺事件があり、20人以上が殺害されている。

 また、「スミルヌイフ(旧気屯)、ウゴレゴルスク(旧恵須取)などの地方で、朝鮮人が日本憲兵、在郷軍人それに極右分子によって殺害されたという風評を聴いては」(『サハリンからのレポート』)いるが、実証する記録はないという。おそらくサハリン全島を調べると、こうした埋もれている事実はまだあるのであろう。来年9月に行く調査団にも参加する予定なので、さらに詳しい報告をしたい。(野添憲治、作家)

[朝鮮新報 2009.10.21]