八丈島 飛行場など朝鮮人強制労働、聞き取り調査で浮きぼりに |
「八丈島の朝鮮人労働聞き取り報告会−八丈島と強制連行」が10月24日、八丈島の大賀郷公民館で開かれた(共催=東京朝鮮人強制連行真相調査団と「八丈島の戦争を知る会」)。島民など約40人が参加した。報告会では、八丈町教育委員会の林薫氏(元三原小学校教諭、60)、調査団の李一満・朝鮮人側事務局長(65)、笹本直衛・前八丈町長(75)が発言した。同島では、当時の状況や証言などから少なくても300人以上の朝鮮人が強制労働を強いられたと推察されるが、いまだにその実態はほとんどわかっていない。
報告会ではまず林氏が発言。南朝鮮の「日帝強占下強制動員被害真相究明委員会」の調査により、2009年4月現在、八丈島で強制労働を強いられた朝鮮人は労務8人、軍人・軍属各19人の計46人で、そのうち生存者は13人いること、また今年4月3〜7日に調査団メンバーとともに南朝鮮を訪問し、生存者3人に聞き取り調査を行ったことを明らかにした。 林氏は、「八丈島の役場にも、防衛省の資料にも、八丈島の朝鮮人に関する文書はいっさい残っていない。今でも強制労働の事実が隠ぺいされている」と指摘した。 続いて、李事務局長が前述の聞き取り調査と、その後同月27日から29日にかけて李事務局長が一人で行った調査で得られた証言を紹介した。 「17歳の時、遊んでいたら勤労報国隊員として日本官憲に連れて行かれた」「23歳の時、特別令状で強制的に連れて行かれた」 生存者たちは突如、強制的に連行され、一度日本各地で労働を強いられた後、八丈島に連行されたと証言した。
これまで八丈島での強制労働は、そのほとんどが朝鮮人労働者で構成された菅原組が工事を請け負った事実や証言から、飛行場建設に関連していたことがわかっていたが、今回の聞き取り調査でそれ以外に「山に入ると穴を掘ったり、道路を造っている同胞に会った」という証言が得られ、地下要塞や道路工事にも朝鮮人が従事させられていたことがわかった。島の防衛道路の竣工記念碑には、創氏改名された朝鮮人の名前が刻まれており、以前から飛行場建設以外にも強制労働があったと考えられてきたが、それに関する証言が得られたのは初めて。しかし、何の建設であったのかは判明していない。
また李事務局長は、生存者たちは労働は過酷だったが「島民は親切で人情深かった」などと語り、「機会があれば八丈島を訪れてみたい」と感想を述べていたと話した。 また、笹本前町長が島内での聞き取り調査の報告を行った。その中で笹本氏は、当時、多くの島の人たちが強制疎開させられていたこと、当時の状況を知る生存者が少なく記憶が断片的で朝鮮人強制労働に関して不確かなことが多いと指摘しながら、「飛行場(八丈島空港)には、朝鮮人の強制労働の歴史が詰まっている」と参加者たちに強調した。 調査団の西澤清団長(71)は、「聞き取り調査によってパズルみたいにピースを一つずつ当てはめていっているが、おおぜいの方たちが亡くなっていっている。時間との戦いだ。情報を集めたい」と呼びかけた。 報告会に参加したある女性は、「根気強く調査していることが感じられた。私は日本本土出身で、幼い頃に祖母から『関東大震災の時に朝鮮人の友だちがたくさん殺された』と聞いていて、こういった問題に関心があった。夫の転勤で八丈島に来て30年になるが、この島での強制労働については初めて知った。事実を知ることは、平和への行動につながると思う」と感想を述べていた。 八丈島の朝鮮人強制労働 1943年8月、伊豆諸島の防衛は「国内防衛ニ関スル陸海軍任務分担協定」で、「海軍担当、陸軍協力」となる。同年9月、陸海軍統帥部が本土防衛のため絶対国防圏を縮小、伊豆七島の最南端に位置する八丈島は硫黄島、沖縄に続く「最後の出城」として要塞化が進められた。同年11月、海軍施設部の指示により、そのほとんどが朝鮮人で構成されていた菅原組の労働者300人が連行された。作業は昼夜兼行で行われ、半年後に滑走路、その後、格納庫、誘導道路が完成した。これらの事実や証言から、八丈島には少なくとも300人以上の朝鮮人が労働に従事させられたと推測されている。強制労働を強いられた朝鮮人は、解放後、ほとんどすべてが帰還している。現在の八丈島空港は、当時作られた飛行場を補修・拡張したもの。(鄭茂憲記者) [朝鮮新報 2009.11.11] |