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〈帰国事業 50周年〉 朝鮮赤十字会 在日同胞事業局関係者が語る

「出発点は同胞愛」

 【平壌発=姜イルク記者】14日、在日同胞の帰国事業実現から50周年を迎える。1959年12月16日、975人の在日同胞を乗せた最初の帰国船が清津港に到着してから84年7月27日まで187次にわたり、9万2125人が帰国した。その後に帰国した在日同胞を合わせると、その数は10万人あまりにのぼる。在日同胞の帰国事業の発端と経緯などを振り返る。

発端と経緯

975人の在日同胞を乗せた第一次帰国船

 1959年2月16日、朝鮮民主主義人民共和国内閣総会が開かれ、在日同胞の帰国に関する実務問題の解決を朝鮮赤十字会に委任した。朝鮮赤十字会は帰国実現に向けた活動を展開した。

 朝鮮赤十字会中央委員会のキム・ヨンホ部長は、50年代、在日同胞の生活は厳しい状態に置かれ、多くの同胞が生活苦にあえいでいたと指摘する。日本赤十字社の統計によると、54年末の在日朝鮮人の完全失業率は日本人の8倍にものぼった。

 これは、朝鮮独立後も変わらない日本当局の民族差別政策に起因していた。

 金日成主席は55年9月29日、祖国を訪問した8.15解放周10年在日朝鮮人祝賀団と会見した席上、帰国を望む在日同胞を受け入れることに対する立場を表明した。同年12月29日には外相声明を通じて、この立場を内外に宣布し日本政府に協力を求めた。

 しかし日本政府は米国の圧力を背景に、この要求に応えようとしなかった。帰国問題を思想、制度の対立問題にすりかえようとした。そして在日同胞に対する政治的差別と民族的迫害を継続した。

 55年10月20日と29日、最高人民会議常任委員会代表と日本国会議員団との間で共同コミュニケが発表された。そこには在日朝鮮公民の民族的権利と生活安定を保障する問題に関する内容が反映されていた。

 しかし、在日同胞の苦しい生活境遇には変化がなかった。

朝鮮赤十字会中央委員会のキム・ヨンホ部長

 キム部長は、「日本当局が在日同胞に安定した生活を保障していれば、当時あれほど大々的な帰国事業は提起されなかった」と話す。

 朝鮮政府の積極的な政策展開と在日同胞の闘争、そして国際世論の圧力に直面した日本当局は、59年2月13日、在日朝鮮人の帰国を承認した。

 主席はその3日後の2月16日、内閣総会を召集し在日同胞の帰国問題を単独の議題として上程した。主席は、日本当局が帰国を認めた条件下で、朝・日赤十字会談を開催し、帰国協定を早急に締結する方針を示した。

 59年4月13日からジュネーブで行われた朝・日赤十字団体の実務会談で、日本側はさまざまな不当な問題を持ち出し、交渉に障害をもたらした。日本側は、在日同胞がすでに 総連に提出した帰国申請書の存在を無視して、日本赤十字社が帰国希望者から申請書を新たに受け付けるべきだと執ように主張した。また、「選別」「意志確認」などの事項や赤十字国際委員会の介入問題も持ち出した。

 双方は、59年6月10日に基本問題に関して合意し、6月24日には協定書類の作成を終えたが、日本側は、協定書類の作成が終わってからも「赤十字国際委員会の事前認可」を取得すべきだと主張し、協定調印を延期しようと策動した。

 主席は朝鮮側代表団に対してジュネーブ会談を破たんさせようとする日本側の策動を糾弾し会談会場から撤収、帰国するよう指示した。日本側は会談がこう着状態に陥った責任を負い、次第に追い込まれていった。

 結局、日本側は8月13日、インドで「在日朝鮮公民らの帰国に関する協定」にサインした。

迎接委員会設立

 国内では、在日同胞の帰国実現をきっかけに59年10月21日、在日朝鮮公民迎接委員会が創設された。今年9月に改称した在日同胞事業局の前身だ。

 委員会は発足以降、帰国事業全般を統括してきた。現在は在日同胞の祖国訪問事業も担当している。

 当時、迎接委員会は帰国した在日同胞の就職や就学、住宅問題などを取り扱った。

 また、同胞たちが祖国での生活に順応できるよう、社会秩序や生活様式を学ぶ講習所を設置し、講習を行った。職業選択や子どもたちの進学問題においても同胞らの意向を最大限に実現させるよう尽力した。

 迎接委員会の設立によって、帰国した在日同胞に安定した生活を保障する事業が滞りなく行われた。

 在日同胞事業局のファン・トシク局長は、帰国した同胞に対する当時の国内の待遇についてこう話す。

 「われわれが少し我慢しなければならないことがあっても、異国の地で苦労した同胞を温かく迎え入れ、彼らの生活を保障しなければならないというのが主席の考えだったし、われわれも同じ気持ちだった」

 当時、国内で最大の懸案だった住宅問題の解決も帰国同胞を優先した。市民が同胞に自分の家を譲ったケースも多い。

 「当時、米はとても貴重だった。私の記憶にも白飯が食卓にのぼったのは正月と祖国解放記念日、自分の誕生日のときだけだったが、帰国同胞の家庭には国から米が支給された。生活道具もすべて国がそろえた」

「民族的義務」

 キム部長は、在日同胞の帰国が実現したのは「主席の海外僑胞運動思想の具現」だと指摘する。

 また、帰国事業に関する主席の意志は在日同胞に安定した生活を保障すべきだというところにあったとしながら、「帰国事業の出発点は同胞愛」だと強調した。

 「当時、主席の指導を受けて活動した朝鮮赤十字会は、在日同胞の帰国の航路を用意することを当然なる民族的義務と受け止めていた」

 一方でキム部長は、最近、日本の一部勢力が帰国事業の本質を誹謗中傷し、誤った世論を広めていることについて「朝鮮のイメージを曇らせる目的から出発した妄動」だと批判する。

 そのうえで、「植民地時代に日本へ渡った同胞を保護することは日本の義務だ。義務を果たすことなく、今日も総連と在日同胞を弾圧、迫害している日本の反動勢力が50年代に実現した帰国事業に言いがかりをつけるのは言語道断だ」と非難した。

[朝鮮新報 2009.12.4]