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劇団May−「晴天長短−セイテンチャンダン−」 次代にぶつける3世のメッセージ

 1月23日、小劇場・新宿タイニイアリスで劇団Mayの演劇「晴天長短−セイテンチャンダン−」が初日を迎えた。

 大阪に本拠地を置くMayが、東京で公演を行うという話を聞いた昨年夏から、この日を楽しみにしていた。Mayの作品を観るのはこれがまだ2作目。しかし、昨年7月に観た「チャンソ」(作・演出 金哲義)が、次世代の朝鮮学校生徒たちへエールをおくる青春ドラマとして非常に感銘を受けた作品だったので、「晴天長短」への期待も大きかった。

 結論から言うと、「晴天長短」は期待にたがわぬ快作に仕上がっていた。

運動会の原体験

チャンダンのリズムが流れると自然に踊りだす曾父母

 本作品も「チャンソ」と同じく金哲義が作・演出。また舞台も「チャンソ」と同じ金哲義の母校・大阪朝鮮高級学校で、運動会の一日が描かれている。親だけでなく親せき縁者が大挙つめかける朝鮮学校の運動会。高校3年の洋光の運動会に、父、母、祖母、曾祖母、叔母・叔父たちが保護者席に陣取る。

 豪華な弁当を準備し大量に酒を持ち込んで、競技そっちのけで宴会が始まるのは朝鮮学校の運動会の常。そして応援したかと思うと、静かに座って見ていられず、観客としての立場を忘れて子どもにとっては本当に迷惑な行動をとる。作者の運動会の原体験に「見る側のラインを抜けて自己主張してくる両親や親戚達の姿」(作品パンフレット)があるようだが、3世である作者が親の世代からぶつけられたコミュニケーション(民族としてのあり方の主張)を若かったからこそ受け入れられなかった、そのことを「照れ」とともに思い出している気持ちが舞台によく現われていた。そして、そのまま次の世代へと伝えていきたいという意志が伝わってきた。

 親せき一同が集まると、政治的立場や朝鮮人としてどう生きるのか(生きないのか)ということの違いから、言い争いが起きる。口論する姿から在日朝鮮人社会の縮図を描きながら、伝えることの大切さが浮かびあがってくる。

当事者として生きる

リレーで勝利した瞬間、家族は口論も忘れ喜ぶのだった

 本作で重要な役割を担っていたのが曾祖母だ。ボケてずっと座っているだけだが、チャンダンのリズムが始まると朝鮮の踊り(オケチュム)を踊りだす。曾祖母が踊りだすと口論していた家族も一緒に踊る。政治的な立場や理屈などを超越した1世の存在。祖母が「チャンダンが聞こえるうちは、死んでられへん」と言う。在日朝鮮人社会にいつまでチャンダンが聞こえ続けるだろうか。不毛だと思える家族の口論さえも、愛しく感じさせる。

 運動会の最後、リレーのアンカーを務める洋光。しかし、バトンを受け取ったときにはトップとずいぶん離されている。父役を演じる金哲義が言う。「置かれた状況(最下位)が自分のせいでなかったとしても、人間はその状況に打ち勝たなあかんのや」。

 大逆転で優勝する洋光。それまでどうでもいいような写真ばかり撮っていた叔父が、あえてその瞬間を撮影しない。フィルターを通すのではなく自分の目で見ることの意味は何か? 祖国分断や日本に生まれ育ったことなどすべて、自分のせいではないが、いまこの時代を当事者として積極的にかかわることへの作者の決意が感じられた。作者はそのことを、次世代、とくに朝鮮学校に通うすべての子どもたちに要求する。しかし作者の次世代に注がれる眼差しは、前作「チャンソ」よりもさらに優しい。

 口論に夢中になって「(運動会を)他の場所でやったらどないやの」を連発する母や、運動会の最中に孫にお小遣いをやろうとする祖母などがけっさくで、「こういう朝鮮人はいつまでも残しておかなあかんなあ」と思わせるところが、またうまい。

 Mayの次回作「ボクサー」(9月24〜28日、大阪・シアトリカル應典院)にも期待したい。(琴基徹記者)

[朝鮮新報 2009.2.2]