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〈続 朝鮮史を駆け抜けた女性たちB〉 侵略に命をかけ抵抗した義−論介

愛国に身分の上下なし

「論介」の肖像画奪われる?

論介の新肖像画(尹汝煥作)

 2005年5月10日、晋州城義妓祠に安置されていた論介の肖像画が、その額縁のガラスをハンマーで割られ祠の外に出される事件が起きた。晋州の団体「独島守護晋州市民行動」は記者会見を開き、愛国の聖地である晋州で、その象徴である論介を祀る「義妓祠」に、親日画家が描いた肖像画をそのまま安置することはできないと主張した。

 その画家は日本の植民地時代、朝鮮の女性たちが金の簪を日本の戦争物資に供出した姿を描いた「金簪奉納図」を朝鮮総督府に収めた人物で、「論介」の肖像画の技法が日本画のそれであり、描かれた論介の髪型や服装が時代考証を経ないでたらめなものだという指摘を1993年頃から受けていた。

 南ではこの事件を受けて、「論介」の肖像画を全国公募、2008年5月23日に忠南大の尹汝煥教授が描いた新しい肖像画が、「論介標準肖像画」として300人が見守る中、「義妓祠」に奉安された。

妓生ではなく「側室」?

 「論介」。名を知らずとも、倭の侵略軍の武将を抱き川に飛び込んだ女性だと聞けば、「ああ」と首を縦に振る人は多いだろう。だが、彼女の出身地や身分、倭の武将の名など資料は極端に少なく、今も論争が絶えない。愛国の烈女が、妓生や「賎妾」(「太常謚状録」−慶尚右兵使贈左賛成崔公請謚号行状−の文中)では何か不都合だったのか、時代が下るとともに、「賎妾」という単語は「側室(副室)」に置き換えられていく。

論介が敵将もろとも川に飛び込んだ矗石楼

 柳夢寅(1559〜1623)が書いた「於于野譚」に論介の記載がある。それは1594年、柳夢寅が三道巡按使として晋州に赴いた折、壬辰倭乱時の犠牲者の名簿を整理する過程で論介の話を聞き記録したものだ。論介の死後1年のことである。後に柳夢寅はこの話を「於于野譚」人倫編、娼妓条に記載せず孝烈条に記載、また「東国新続三綱行実図」が編さんされた時、論介のことが記載されていないことに気づき編纂者たちの姿勢を批判した事実がある。愛国者は「立派」であるべきなのに「賎しい」官妓を女子どもの教育書に載せるわけにはいかないという当時の為政者たちの差別的な視点に対し、愛国者に身分の上下はないと柳は主張したかったのだろう。

 「於于野譚」の記録は次の通りである。

 「論介者晋州官妓也、(中略)、論介凝粧現服、立于矗石楼下蛸岩之嶺、(中略)独一将然直進、論介笑而迎之倭将、誘而引之、論介遂抱持其倭、投于潭倶死(論介は晋州の官妓である。〈中略〉論介は化粧をし、衣服を整え、矗石楼の下にある険しい岩に立った。〈中略〉ある武将が進み出た。論介は微笑みを浮かべると、その倭の将を誘った。そして、ついにはその将に抱きつくと水面に身を投げ共に死んだ)」(「於于野譚」人倫篇、孝烈条)

「義巌別祭」、82年ぶりに復元

第7回晋州論介祭「義巌別祭」

 1740年、朝廷の命により義妓祠が建てられると、晋州の人々は論介を祀る祭祀を行うようになる。官では祭礼に必要なすべての物資を提供し、その後、1868年、晋州牧使は再び義妓祠を建て、春と秋2回行っていた祭祀とは別に、毎年6月中旬論介を祀る祭礼と歌舞を執り行った。官と民が一体になり官妓を祀るという、朝鮮王朝始まって以来の「事件」であった。これが「義巌別祭」である。当時の晋州牧使・鄭賢碩は妓生の文化に関心を示し、パンソリや音楽にも造詣が深かった。彼が書いた「教坊歌謡」(詩歌と舞曲を収集、記録した本)の中で「義巌別祭」歌舞の項目を見ると、300人の妓生が三日にわたって祭礼を行い、歌い踊る華麗な大祭典であったことがうかがえる。

 だが1910年、日本の侵略により、「義巌別祭」は途絶えてしまう。民族の独立心を高揚させるというのが禁止の理由であった。

 解放後「義巌別祭」は長らく復元を見ることができず、年老いた元妓生たちにより義妓祠で論介の祭祀だけが細々と行われていた。ところが朝鮮王朝末の官妓であった崔順伊氏(1973年没)が生前直接参加した「義巌別祭」の全貌を、伝統芸能伝承者であり芸人である成桂玉氏に伝え、興味を持った成氏が1960年代から「義巌別祭」復元のために研究を重ね、鄭賢碩の「教坊歌謡」を国立中央図書館古文書収蔵庫で発見、これを読み解くために高麗大学で漢文を習得するに至る。

 1992年にはついに、「義巌別祭」は復元される。国権の喪失により廃止されて以来実に82年ぶりの再現であった。

 論介が官妓であれ「賎妾」であれ関係なく、民族に対する侵略に命をもって抵抗したその意思は、今日親日画家の描いた肖像画を外させ、「義巌別祭」を復元させた女性たちの執念に受け継がれ、これからも脈々と生き続けていくだろう。(朴c愛・朝鮮古典文学、伝統文化研究者)

[朝鮮新報 2009.4.10]